下町労働運動史 (31) 大正時代の下町労働史 その23

下町ユニオンニュース 2014年1月号より
小畑 精武
  
大震災後の労働運動 23
 
ボルとアナ 労働戦線の分裂へ
すでに震災前から、労働戦線はアナ・ボル論争が展開されていました。明治時代にはアナーキズム(無政府主義)が力を持ってストライキなど直接行動を展開。関東大震災の時に、官憲は亀戸に居を構え活動したアナーキストの中心人物、大杉栄を殺害したのです。
ボルはロシア共産党になるボルシェビキを支持する派で、一九一七年のロシア社会主義革命に影響され、一九二二年堺利彦が書記長となり日本共産党を結党します。ボル派は総同盟の中で活動をしていました。
下町では、一九二三年五月から七月にかけてアナーキスト系の機械労働組合連合会とボルシェビキ系の南葛労働会渡辺政之輔が関わる争議がおこっています。
汽車製造会社東京支店争議
汽車会社は鉄道車両を製造し、本社が大阪。本所区錦糸町と深川区東平井町に工場がありました。両方で男子九三八人、女子四一人が働いていました。世間的には不況でしたが汽車会社は隆盛でした。

下町労働運動史31汽車会社の製造版汽車会社の製造版 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:JNR233-MakerPlate.jpg 汽車会社の工場は現在の錦糸町楽天地にあった。

そこには労働組合が二つあり、主流の革新会(七八〇人)はアナーキスト系機械労働組合連合会に所属、もう一つの誠睦会(一二六人)は穏健で会社と協調的でした。渡辺政之輔が支持した組合は、アナーキスト系からは会社との協調派とみられていたのです。(びっくりですね!)しかし、アナーキスト系の直接行動はスト至上、暴力的で一揆に似ていました。この争議での「過激派」は共産主義を唱えるボルシェビキ派はではなく、アナーキスト系だったのです。
ボル派は統一を志向
二三年二月に革新会は解散して誠睦会と統一し、関東車両工組合を創立してアナ系の機械労働組合連合会に加盟することをすすめていました。しかし合併を決める五月一九日の誠睦会の総会時に関東車両工組合が乱入。さらに「御用組合」誠睦会幹部二人を排斥すべきと二二日会社に申し入れたのです。会社は職工相互間の問題として拒否します。
これに対し、車両工組合幹部は怠業(サボタージュ)をすべきと職場を退出。深川工場の労働者は車両工組合のやり方は問題があると怠業に不参加。二四日いったん車両工組合は職場復帰。しかし、二五日正午休憩時に排斥目標の幹部三人に暴行を加えようとしましたが、会社は三人を事務所に保護し、さらに関東車両工組合幹部一七人の解雇を告げます。これに対して車両工組合は大島労働会館を争議本部として、二八日から同盟罷業(ストライキ)に入ります。
自転車による組合員宅戸別訪問や行商などを展開しますが、会社は強硬姿勢を取り続けます。六月中旬より戦線を離脱し就業する組合員が徐々に増加していきました。
アナ系争議の敗北
誠睦会は総同盟系の関東鉄工組合に加入し、二一日本所支部を設立。紛争は総同盟対機械労働組合連合会の様相を示してきます。
南葛労働会の渡辺政之輔は、すでに一七日に誠睦会の幹部と関東車両工組合の有志から合同への尽力を依頼されていました。誠睦会の一三〇人はすでに南葛労働会に所属していたのです。同一工場に二つの労働組合は必要ないとの立場でしたが、車両工組合のストライキに対して誠睦会は会社に出勤し仕事を継続。渡辺は六月に共産党弾圧で検挙されますが南葛会の指導は続きました。
結局、アナーキスト系の車両工組合は「刀尽き矢折れ」ました。二カ月に及ぶ争議は突如七月十一日に争議打ち切り無条件就業の宣告が出され終わったのです。
この争議について関東鉄工組合本所支部(旧誠睦会)はビラで車両工組合の背後の機械労組連合会に責任があるとし、逆に、車両工組合と機械労働組合連合会は南葛労働会を罷工(ストライキ)の「裏切り者」を援助したと「休戦宣告」で批判しています。
【参考】「大正十二年労働運動概況」(社会局第一部、明治文献版、一九七一年)