下町労働運動史(32) 大正時代の下町労働史 その24

下町ユニオンニュース 2014年2月号より
大正時代の下町労働史 24 
小畑精武
  
関東大震災後の労働者生活
 錦糸町(現楽天地)にあった汽車会社も関東大震災で大きな被害を受け、やがて工場は旧城東区南部(東陽町)に建設される新工場へ移転します。(工場は一九七二年まで続き、蒸気機関車、電気機関車から新幹線までを製造。現在は都営団地になっている。)
 震災にあった労働者は、一九四五年三月の東京大空襲や二〇一一年の東日本大震災・津波被災者と同様に家を失いました。もちろん仕事も失いました。東京都の人口は震災直前二四九万人が震災直後の一一月には一六二万七千人に激減。しかし、一年後の一〇月には一九一万七千人に回復しています。震災で大きな被害を受けた旧本所区人口は一九二〇年の二五六、二六九人が二五年には二〇七、〇七四人に減り、近郊部だった旧向島区は六四、四二六人が一二〇、五三〇人へと増加しました。
 お墓の卒塔婆もバラック住宅建設に
 二五号で紹介した賀川豊彦は、震災後一九二四年六月に本所、深川、下谷、浅草区で住宅調査を行っています。四区で三万三千戸が不良住宅であると推測。本所区松倉町では赤く錆びついたトタン屋根は一寸(三㎝)に柱に支えられ雨漏りがし、床は低く雨が降ると床上浸水。猿江裏町では、バラック長屋が復活したもののその骨組みはお墓の卒塔婆の使い古しを使用、にもかかわらず六畳一間の
家賃が七~一三、一四円と高く、汚水で共同便所があふれ、家賃が貪られていました。日比谷にはバラック村ができました。こうした劣悪な環境の中で腸チブスが流行し、二四年一月から三月一一日までの七〇日間に患者数一七三九人、うち死亡が三九五人に上ります。患者の多くはバラック生活者でした。
新たな仕事と失業の増加 
 市電が大打撃を受けるなか、新たに女性車掌の市営バスが登場します。(第一五号参照)大震災の翌二〇一四年にスタート、今年で「都バス九〇周年」になります。バスだけではなく、市電にも女性車掌が採用されていきます。募集人員は最初五〇〇人位で「女車掌の乗務は一般乗客の希望するところであり、混雑緩和の一助となるうえ、多少給料も安いし、かつ文句が少なくて柔順に働くだろう」と報じられました。
震災後の職業紹介所に並ぶ失業者
 しかし仕事がありません。一九二五年七月には、深川周辺の自由労働と称する木賃宿に居住する日雇い労働者五五〇〇人のうち、毎日仕事にあぶれるものが一二〇〇人(二二%)にも達しています。労働争議は従来の積極的賃上げ、労働時間短縮要求が影をひそめ、賃金引き下げや解雇に対し撤回を求める争議がほとんどとなり、前年一月から六月の争議五五件に対し、一九二五年は七〇余件と増えています。また、東京府にある四一九〇の工場法適用工場のなかで毎日二〇工場が休業あるいは閉鎖に追い込まれていきました。
 すでに、失業対策は第一次世界大戦後の不況から昭和の初期にかけて社会的課題になっています。
  失業対策
海軍軍縮による造船業の縮小、財政再建のための行政整理(公務員の削減失業)、熟練労働者の失業が増加していきます。失業者の統計は一九二五年(大正一四年)の国勢調査ではじめて明らかにされます。日雇い労働者は職を求めて市役所や職業紹介所を占拠、解雇反対・復職要求の激しい労働争議の多発、失業を理由とする盗難・自殺が増加しました。こうしたなか一定規模以上の企業は法的に義務づけられていないが「解雇手当」を支払うようになります。さらに失業を生み出す資本主義社会に対する批判が高まり労働運動、社会主義運動が広まっていきます。
これに対して一九二五年には治安維持法が制定されます。職業紹介法自体はすでに一九二一年に制定され、無料の職業紹介所が市町村に設置されました。しかし、新たな求人をつくりだすものではないので、失業問題には無力だったのです。
【参考】「東京百歳-朝日新聞一〇〇年の記事にみる」(朝日新聞社編、一九七九)
「失業と救済の近代史」 (加瀬和俊、吉川
弘文堂 二〇一一)