下町労働運動史(30) 大正時代その22

下町ユニオンニュース 2013年11月号より
下町労働運動史(30)大正時代その22 大震災後の労働運動 1
        小畑精武
 
 南葛労働会、渡辺政之輔の場合
亀戸事件など震災で壊滅的打撃を受けた労働運動は震災後どうなったのでしょう?
川合義虎はじめ中心メンバーが虐殺された南葛労働会はちりぢりになりました。虐殺を逃れた渡辺政之輔(渡政)は市ヶ谷の刑務所です。丹野せつは藤沼栄四郎と二人きりになってしまい、「どうしていいかわからない」状態でした。
そこで彼女は渡政を市ヶ谷刑務所に訪ねます。「二人きりでもいいから、組合の看板だけは降ろさずに、守っていくように」と言われました。吾嬬町の東京モスリンで働き始め、活動を開始します。工場は二交代、夜中の一二時が交代時間でした。やがて相馬一郎が新潟から帰り南葛労働組合を再建します。
暮れには渡政が保釈で出獄、弟を亀戸事件でなくした南喜一も加わります。明けて一九二四(大正一三)年二月一七日に青山斎場で総同盟、朝鮮人も参加して亀戸事件合同追悼会を開きます。
南葛労働会から東部合同労組へ
二月二二日、南葛労働組合(一九人)を解散し、宮田自転車製作所など当時は今の自動車と同じ花形だった自転車製作労働者の組合江東自転車工組合(四〇数人)と合同して渡政が理事長になる東京東部合同労組を結成、総同盟加盟を決めます。東部合同労組の事務所は渡政の太平町の家に置かれました。(写真:渡辺政之輔)

三月一五日、渡政は丹野せつと結婚。丹野の親は「社会主義者には絶対にやらない」と言って結婚を許さなかったそうです。渡政は二六歳、丹野は二三才。結婚式は渡政の家に南葛の仲間が二〇人ほど集まり、おしるこの結婚式でした。渡政は飲めば三升飲めたそうですが、お酒の失敗があって当時は飲まなかったそうです。翌日、新婚生活はどこへやら、渡政ははやくも足尾銅山スト支援に駆けつけます。丹野は吾嬬町から亀戸の渡政の家に移り、職場も日清紡績(現公団亀戸二丁目団地)に変わります。家は二階が東部合同労組事務所、下の六畳は渡辺の母、三畳が二人の部屋でした。
ドイツの救援基金で労働会館建設
東部合同労組には若い活動家が加入し、どんどん大きくなっていきます。四月の第一回大会には二〇〇人以上の代議員が出席しました。会場は出来たばかりの事務所の屋上です。ドイツ・ベルリンの国際労働者救援委員会からの震災救援基金で太平町には総同盟職業紹介所兼東部合同労組本部事務所、大島町に会議室と宿泊所の労働会館が建設されたのです。事務所は建坪一八坪、瀟洒な洋館で、二階は一二畳の応接兼会議室と六畳、三畳、台所、便所、階下は三坪の事務所、六畳、三畳、台所、便所がありました。
南葛労働会から東部合同労組へと引き継がれる青年たちの労働運動は、ロシア革命の成功を受け共産主義に大いに影響を受けました。渡政自身大震災の直前に共産党弾圧事件で逮捕され震災当日は獄中にいたのです。出獄後、渡政が中心になって「賃労働と資本」、唯物論や弁証法の学習会を進めていきます。渡辺政之輔は東大新人会の影響も受けていました。
学習・行動・組織活動の「南葛魂」
彼はボリシェビキ派として左翼的な労働組合政策により総同盟の左翼化を図ろうとしました。そのためには、革命的理論を把握し、闘争によって鍛えられた労働者の養成が絶対に必要と考えました。「南葛魂」といわれる「学習・行動・組織活動」が渾然統一した独特な作風がつくられていったのです。
渡辺政之輔は、プランを立て、行動グループをつくり、東京モスリンや富士紡など宣伝活動の目標工場を決め集中しました。結果を総括し、学習の基礎にしていったのです。
【参考】「丹野せつ-革命運動に生きる」(山代巴、牧瀬菊枝編、勁草書房、一九七〇年)
「渡辺正之輔とその時代」(加藤文三、学習の友社、二〇一〇年)