下町労働運動史13 大正時代4

下町ユニオンニュース 2012年4月号より
大正時代の下町労働史 その4 
小畑 精武
 
世界大戦と米騒動、大島鉄工所争議
 「溶鉱炉の火が消えた」
東京モスリン争議があった一九一四年(大正三年)、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まりました。日本から遠く離れた戦争は日本資本主義にとって発展のチャンス。工場も労働者数も増加し、一五人で始まった友愛会は一九一六年には三万人になっていました。大戦末期には労働争議が頻発し、一九一八年には九州の八幡製鉄所(新日鉄)で溶鉱炉の火が消えるという大争議が起こります。当時の要求は賃上げとともに八時間労働制が職場要求であり、労働組合の公認、普通選挙権、治安維持法の撤廃が運動の大きな柱でした。下町では本所(現在の錦糸町楽天地)の平岡汽車会社で争議が起こっています。ロシア革命が起こったのも一九一七年です。
 米騒動の勃発
物価も激しく上がりました。富山の漁師女房たちの米騒動が一九一八年七月に勃発し全国に広がっていきました。東京での米騒動は八月に日比谷公園音楽堂に最高時一五〇〇人が集まり、これに対して正力松太郎(戦後原発を推進した)方面監察官が警察官を指揮して、民衆を追い出したため、民衆は銀座の商店ショーウィンドーをぶち破り、日本橋、蠣殻町に流れ、さらに深川方面に流れていったそうです。銀行、商店、料理店が打ち壊され、正力松太郎も投石により頭に負傷しました。一道三府三二県、件数一五九、参加人員一千万人におよびました。一九一八年に第一世界大戦は終わり、一九一九年にはILO(国際労働機関)が創設されました。
 一〇〇人を突然解雇
一九一九年(大正八年)五月に大島町の大島製鋼所(現在大島四丁目団地)で争議が勃発しました。一〇〇〇人の従業員の一割一〇〇人を突然解雇し、機械工場では従業員一七〇人のうち二一人が解雇されました。個人加盟で職場での組合員が少ない時代にこの職場は全員が友愛会の会員、不当解雇として①機械工場の職工すべてを解雇された職工と同額の手当で解雇せよ、②旋盤工場の主任某、仕上げ工場助手某を解雇せよ、③職工が毎月月収の三分を積み立てている手当金を払い戻せ、と要求しました。五日正午には同盟罷業に突入した。①の要求は今日では考えられない内容です。首を切るなら全員の首を切れということで、血も涙もない会社では全員が働けないという理由です。
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 六日に罷業実行委員会は会社常務と会見しました。しかし会社は要求を全面的に拒否。七、八日も交渉を重ね、職工側は全員解雇せよという要求は取り下げ、職工が信頼する六人を復職させよと要求しました。それも会社は認めず。第三項だけを認めるとの回答に交渉は決裂してしまいました。
 九日夜、争議団は大島町の五ノ橋館で会場があふれるほどの労働者が集まり大会を開きました。大会には友愛会の東京鉄工組合代表の松岡駒吉(後に労働総同盟会長)や後に亀戸事件で官憲に殺される城東連合会長の平沢計七らが熱弁をふるいました。一〇日には罷業は全工場に広がりました。他方で同情金(カンパ)が続々と集まり総額二〇〇円にもなったそうです。この日労使の調停に入ったのは亀戸署長でした。今では考えられないことですが、当時は労働委員会もなく、直接警察が調停に入ったのです。(現在の警察は「民事不介入」が原則です)その結果、職工側の復職要求を一人減らす、会社は今後増員の時には解雇者から採用することを約束、第二項も「近く職工の希望を達せん」と約束し、翌一一日から全職工が就労しました。
 同年一一月には石川島造船所で八時間制と賃上げでストライキ、東京市電でも争議がおこっています。ちなみに一九一九年の労働争議は二三八八件、参加人員三三五二二五人、このうちストライキは四九七件、六三一三七人と記録されている。二〇〇九年はわずか四八件、三六二九人だから、労働組合活動が厳しく制限されていた大正時代の方が争議・ストライキ件数が圧倒的に多かった!驚き!
  【参考】「日本労働組合物語」大正   大河内一男、松尾 洋 昭和四〇年、筑摩書房