下町労働史 89

下町ユニオンニュース2019年4月号より 
                                            小畑精武
木下川地区の労働史 
 墨田区東墨田の木下川の地名は室町時代から史書に出てきます。江戸の近郊として木下川梅園もありました。木下川地区と部落問題とのかかわりは、一八〇〇年に弾左衛門(*江戸時代に一三代続いた全関東地域の被差別民衆の支配者)が町奉行所に提出した文書にはじめて「木下川非人頭久兵衛七軒」記されているところから始まったようです。
 明治に入り西洋式皮革業が導入され、弾佐衛門は浅草銭座跡に工場を建設。兵部省が年間一二万足・一〇年間発注をしています。一九〇七年には弾の流れをくむ東京皮革など四社が合併して日本皮革株式会社(現ニッピ)が設立されます。
木下川での製革業は一八八七年頃から始まります。一九〇二年には東京市内から郊外への移転を強制されます。その時に木下川と三河島(荒川区)が移転先と指定され新たな皮革産業地域として形成されます。強制移転の苦境を日露戦争の需要で乗り切り、木下川は本格的な皮革業地域になっていきます。
 木下川地区は低湿地帯で何度も水害に会いました。荒川・隅田川の水害は下町全域に及び、一九一三年から内務省の直営で荒川放水路の工事が始められます。
この工事により木下川地区は墨田区側(木下川)と葛飾側(木根川)の東西に分断されます。工事には近隣農民と日本の植民地となった朝鮮人労働者も多く働いていました。

第一次大戦後の木下川
 当時の皮鞣し(なめし)の工場は小工場が多く、動力なしで行われ、原皮から毛を抜く作業、石灰で処理、鶏糞で中和、水洗、水を樽に汲む作業、薬剤につけた皮を常に動かす作業などを手・足で行う重労働でした。そこには女性たち、朝鮮人、中国人労働者も働いていました。
 関東大震災時に木下川にも大きな被害をもたらします。荒川放水路の建設に従事していた一〇人の朝鮮人が四つ木橋のたもとで殺された証言もあり、虐殺や暴行に地域の人が加わったことも密かに伝えられています。
 第一次大戦から関東大震災以降に、靴、バッグなど皮革用品の需要が拡大し、皮革鞣し業者の数は二〇~三〇に増えます。一九三五年には「東京製革業組合」の組合員は五七軒に達してます。
 一九二五年東京都は用途地域指定を行い、危険物、衛生上有害とみなされた皮革製造、毛皮精製などは乙種特別地域を指定されます。そこは小松川(江戸川)葛西(江戸川区)、砂町(江東)など荒川放水路の河口付近の低湿地で、そこに一五年後までに移転しなければならないという〝追い出し〟行政指導でした。
 これに対して木下川の「東京製革業組合」と三河島の「東京製革組合」は政府に陳情書を出し、製革業は衛生上有害でないこと、移転先は海に近く塩分が水や大気に多く皮革業に不適と訴えました。行政の姿勢は衛生上危険でないのに危険視することで伝統的な差別観念があると政府を批判しました。その後も反対運動を続け、現在地域(木下川、三河島)を乙種特別工業地域とすることを要求し、運動の結果一九三三年に「郊外移転」を事実上撤回させることに成功しました。この運動の成功は、一九二二年に結成された全国水平社(部落の民衆自身の行動で部落解放をめざす組織運動体)の運動の広がりと密接な関係がありました。
皮革工の労働運動 
 この時期に皮革工の労働運動が起こります。一九二四年木下川に隣接する吾嬬町に皮革職従業員組合が組織されます。明治製革を中心に中小工場にも影響力があった自由労働組合に参加する組織で、水平社のメンバーもかかわっていました。
 二六年には評議会(左派)系関東皮革工組合が木下川で結成されます。この組合は「部落解放、朝鮮人・中国人に対する差別の撤廃」を掲げていました。
 友愛会系では、日本皮革の七〇人を中心に北千住支部が組織され、東京革工組合に発展し、二五年には吾嬬第一支部(明治皮革)、吾嬬第二支部(秋元皮革)が組織されます。しかし、二七年夏から秋にかけて、激しい資本側の首切り攻撃にさらされました。一九二六年一月に東京革工組合から分裂した関東革技工組合は木下川に組織と影響力を持っていました。
【参考】 「明日を拓く―木下川地区のあゆみ」東京部落解放研究会 一九九四