下町労働運動史74

下町ユニオンニュース 2017年11月号より
                                                       小 畑 精 武
戦前の下町労働史 その三六
  東京瓦斯(ガス)労働組合の歴史(下)

 停年制反対闘争
 官憲が監視する中で第二回大会が開かれ国家主義的な綱領を改め、無産政党(全国大衆党)への入党運動推進、待遇低下馘首絶対反対、二重賃金制度撤廃とともに「停年制実施反対」を掲げました。また、ガス工組合の産業労働組合の全国的統一を打ち出します。
 停年制実施についてはすでに一九二七年から取組み、①停年年齢五五歳、②退職手当の増加停年退職時の一〇割加算などを要求しました。組合は、「停年解雇後の生活保証であり権利」と位置づけ、完全に闘うことと位置づけていたのです。
 これに対して労務体制を強化してきた会社の回答(一九三一年六月)は、①停年年齢五〇歳、②会社案の基本給与、③停年退職後における生活保証期間(本人一九年、妻二六年、末子扶養七年、計五二年、生活費一人一か月十五円、金利年6分)というものでした。まさに「停年退職金は老後の生活保証費」で今では考えられません。
 
組合の自主的停年制と大衆的闘い
組合の闘争委員会は①年齢は五四歳、②退職理由による割増二割、③実施までの猶予は一年という組合の自主的停年制案を示しました。この案を作成するときに神田の四支部は本所公会堂で検討、池袋支部は軟弱と批判し一時組合から離れます。

             定年制反対ビラ
 会社は停年五三歳を回答しますが組合は拒否。闘争委員会が強化され、池袋支部が復帰、闘争資金も計上され実力行使も辞さない態勢をつくります。これに対して警視庁は干渉に乗りだしました。会社との交渉に四、五人の警官が立会い、圧力をかけました。しかし、組合は屈しません。組合員は本部に続々と詰めかけ、各職場では指令を待ちつつ集会や構内デモを繰り返しました。
こうして、八月に組合と会社は、①停年五三歳、②退職手当の大巾引き上げ、③割増・死亡及び停年満了の場合基本給額の二割増など「停年制実施の覚書」を結び解決に至ります。しかし、ここには日給雇員と傭員との格差が残りました。
 六〇日におよぶ闘いについて組合は「組合員の行動は多くの各支部独自の行動によって規律され、一つの要求にまとめられ統一的な行動として全然効果が表示されなかったとはいえ、大衆的反抗が激烈に下から要求されたことは事実である。」と組合幹部の統一的指導の不十分さを総括しつつも、「一応の勝利」と総括しています。
 企業合理化と社外工問題
 組合は、停年制実施を「人減らし、解雇、賃下げ合理化」の一端ととらえていました。会社は一九三一年一一月に、今後従業員の補充は職工の採用を避け、人夫もしくは社外工をもってする方針を明らかにしたからです。
今日でいう正規雇用の縮小・非正規雇用労働者の拡大です。これまでも社外工、人夫は補助的作業に従事する労働者として採用されていました。二九年からは企業合理化の直接的解雇の対象になり、争議にもなっています。しかし組合全体の支援は不十分でした。支部による支援に留まったのです。
 組合は社外工問題を「合理的な従業員整理」ととらえ、さらに闘争の場合にはスキャップ(スト破り)になると考えました。ここから、社外工即時撤廃と社外工の組織化という二つの傾向が支部に生まれます。
 やがて、「過剰人員整理絶対反対」「社外工制度即時撤廃」に統一されます。社外工・人夫の組合結成を指導する支部も出てきますが、会社の合理化圧力は強く組合は統一的具体的な対策を打てないで終わりました。
労働運動の戦闘化の中で労働戦線統一の動きが「労働クラブ」として現れます。組合はクラブが「右傾化」をもたらすものとして東京市従などと労働クラブ排撃運動を進めました。しかし分裂の危機を迎えます。            
    【参考】「東京瓦斯労働組合史‐大正八年より昭和三〇年まで‐」(東京ガス労働組合、一九五七年)