下町労働史90
下町ユニオンニュース 2019年5月号より
小 畑 精 武
産業報国会への道
一九三五年三月ナチス・ドイツは再軍備を宣言、三六年には日独防共協定が調印され、三八年三月にドイツはオーストリアを併合します。日本も一九三六年の二・二六事件、三七年の盧溝橋事件(日中戦争のはじまり)と侵略戦争への道を歩んでいきました。
三六年四月には石川島自彊組合など府は組合が中心の「愛国労働組合全国懇談会」が結成されます。背景には国家社会主義運動に転向した赤松克麿らがいました。右派労組は三四年にはメーデーに参加せず日本労働祭を開催、三二年には陸・海軍軍用飛行機を献納しています。
三六年九月陸軍工廠(兵器工場)に働く職工の労組加入が禁止されます。その結果官業労働総同盟加盟の約八千人の組合は軍の圧力に屈し、またたくまに解体消滅に追いやられました。
反ファッショ人民戦線
こうしたファシズムの拡大に対してコミンテルン(国際共産党)はセクト主義を改め「労働者階級の統一を基礎にあらゆる階層の統一」をはかる人民戦線を打ち出します。
しかし日本共産党は壊滅状況にあり、社会大衆党や東交など合法左翼がかろうじて議会と労働・社会運動の場で運動を進めていました。三六年九月二二日、両国の本所公会堂(今は解体された)で「広義国防批判・団結権防衛演説」を開き、社大党の麻生久、河野蜜、浅沼稲次郎が「陸軍の組合加入禁止はファシズムだ」と抗議しています。
少年工たち(1942年)
二五日には同じ本所公会堂で労農無産協議会が全評(労組団体)、東交、東京市従、自労(自動車労組)と同趣旨の集会を開きました。しかしこの分裂状態では陸軍省の組合加入禁止を阻止することはできなかったのです。
三六年には「二・二六事件」を理由にメーデーが禁止に追い込まれ、翌三七年にメーデー禁止令が出され、戦後四六年まで開かれませんでした。当日は各地で組合のピクニックや茶話会が開かれ、小樽や名古屋では非合法デモが計画されましたが、警官に蹴散らされたそうです。
三七年一二月一五日午前六時に下町に関係深い島上善五郎、山花秀雄はじめ、加藤勘十、鈴木茂三郎、江田三郎、高野実など総評や社会党でなじみの無産政党、労組指導者が、翌二月には大内兵衛、美濃部亮吉、向坂逸郎ら研究者、計約四〇〇人が検挙されました。「人民戦線事件」です。
賃上げ闘争の激化と罷業絶滅
三七年は軍需インフレが進行し、労働者農民の生活が悪化して各地で争議が起こりました。三月には、東交、東京市従、東京自由労働者組合に加え水道従業員(未組織)がそれぞれ二割の賃上げを要求し、対市賃上げ闘争同盟を結成。四月に東京市役所を取り巻く大衆デモが展開されました。下町では大東紡績(旧東京モスリン)亀戸工場で賃上げ争議が五月に起こっています。
さらに、東交は企業内に留まらず、東京周辺の私鉄、バスの組織化をすすめ、京成バスにも東交の支部ができていきます。(当時東交は産業別労組をめざしていました)全国的には、前年に公布された退職積立金及退職手当法に基づく争議が日鉄八幡製鉄などで闘われました。
戦争支持へ
こうした盛り上がりは総選挙で社大党の一八から三七議席獲得へ大躍進をもたらします。しかし、七月の盧溝橋事件・日中戦争開始以降、社大党、争議団、労働組合は戦争支持へ追い込まれていきます。
軍需工場の職場では成年男子の労働時間を一二~一四時間制とする通達が出され軍事増強が進みます。
一二月の人民戦線事件で大量の無産政党・反ファシズムの指導者、活動家、政党人、研究者が検挙され力を失い、戦争を支持する流れが無産政党にも労働組合にも広がっていきました。社大党は日中戦争の追加予算支出を積極的に支持、全総(総同盟)も一〇月の大会で戦没者に黙とうをささげ争議中止と戦争支持を決議し、さらに「同盟罷業絶滅、産業平和確立運動」を提起していきます。
【参考】 「大河内一男・松尾洋「日本労働組合物語・昭和」一九六九