下町労働史 91

下町ユニオンニュース 2019年6月号より
                   小畑精武
産業報国会と労働組合 
一九三八年に入ると、前年十二月十五日の人民戦線検挙事件に続いて、二月一日に労農派東大教授(大内兵衛、有沢広已ら)が逮捕されます。同じ頃右翼の防共護国団員が政友会、民政党の本部を占拠、社大党委員長も襲われました。
人民戦線事件で東交は三七人(錦糸堀四人、柳島八人)が検挙され、組合内部には「東交の存在は・・日本思想とまったく相容れず、産業協力の遂行上にその妨害となる役割を持つ以外の何物でもない」と東交解消論が一部に台頭し、首謀者三人を含む三〇人が除名されます。
国家総動員法の公布
国会にはすべてを国家が統制できるようにする国家総動員法案が二月一九日に上程されます。労働争議の禁止、新聞記事など出版の統制、徴用なども含まれていました。しかも発動は勅令(天皇の命令)によって行うことができる“緊急事態条項”を含んでいました。
四月一日に国家総動員法が公布され、二八日には協調会が産業報国会運動を提唱。
そこには「各事業場および中央での労資関係調整のための機関設置」が提起され「日華事変下の非常時局にさいし、事業者は『産業の国家的使命を体得し、産業報国の精神に基づいてその経営』に当たり、従業員は、『勤労の神聖なることを自覚』し、両社は一体となり、『事業一家』になって、『皇国』に報いなければならない」という使命が盛り込まれています。

産業報国連盟の設立
七月三〇日には産業報国中央連盟(産報)が創立。この産報の機能は、指導機関ではなく連絡機関とすること、事業場単位の報国会に圧力を加えることがないことが確認されました。厚生省も「産報をつくっても労働組合の解散は強要しない」と当初は労使の自主的な協力が期待さました。しかし徐々に政府の指導、干渉が強まっていきます。
この段階で、七月九日には全総(総同盟)中央委が産業報国会運動に協力方針を決定。同時に、労働組合の自主性を強調しました。職場で最初に産報が誕生したのは石川島造船所で七月三〇日でした。石川島自彊組合が会社と協同で産業報国団体自彊会に改組したものです。産報運動は、石川島造船所で自彊組合を創設した日本産業労働クラブから始まったといわれています。
東交の苦悩  労働組合と産報
東交は三七年一〇月の定期大会で、これまでの闘争第一主義的な傾向を捨て挙国一致・産業協力にまい進する新方針を決定。三八年八月二六日に東京市電産報の結成に至ります。しかし、東交は産報を認めつつも労働組合の強化を追求します。当局に対抗するために、東交はすでに相互扶助を三六年に開始し九九%の加入率を達成、さらに産業報国会に対抗して東交と相互扶助の一元化をはかり、東交厚生部としました。これが、今日につながる厚生部です。また、戦時体制下においても待遇改善(精励手当増額、賞与加給、年末年始手当など)を実現していきました。
三九年になるとますます軍部・警察の圧力が強まり産報への一本化が進みます。労組(全総)内に於いても意見が分岐していきます。「労働者の自主的組織を堅持しながら産報運動に協力する」松岡駒吉、西尾末広に対し「労働組合を解消して産報一本化にまい進すべきである」という河野密たちの意見が正面からぶつかり、の機に置いてまた分裂に追いやられます。
ついに東交労組解散へ東交も産報一本化へまい進する方針を取らざるを得なくなります。警視庁に呼ばれ当局からの再三にわたる組合解散をはね返し、組合存続を主張しました。そして「役員選挙制度確立、産報内従業員懇談会の設置、分会幹事の非乗務制、従業員選出理事の増員」など労働組合的要求・方針を貫きます。しかし、翌一九四〇年七月七日、ついに力尽き、七月八日の総同盟と共に解散を余儀なくされたのです。
【参考】「大河内一男・松尾洋「日本労働組合物語・昭和」一九六九、東交史編纂委員会「東京交通労働組合史」一九五八