下町労働運動史11 大正時代3

下町ユニオンニュース 2012年2月号より
大正時代の下町労働史 その3 
小畑 精武
 
東京モスリン吾嬬工場ストライキ ㈠ 
山内みな 東京モスリン女工から運動へ  
私は現役時代、地方への出張が多く、時間があれば土地の古本屋に行くことが楽しみでした。四国松山の古本屋で偶然見つけた本が亀戸で働き活動していた山内みなの「山内みな自伝‐十二才の紡績女工からの生涯」(新宿書房、一九七五)でした。
以下「山内みな自伝」から当時の紡績工場の労働について引用します。(文体を変えてます)少し時代は下がりますが、有名な「女工哀史」の著者細井和喜蔵が働いていた工場も東京モスリンでした。
山内みなは四方が山に囲まれた宮城県の県北で一九〇〇年(明治三三年)一一月八日に生まれました。小学校卒業後一二才の時、叔母さんが「東京には紡績という会社があって、寄宿舎もあり、一日働けば給料がもらえ、仕事が終われば夜学校へかよって勉強もできる。食堂があってご飯を食べさせてくれるのだから、こづかいはなんにもいらない。行くことにきめれば前借金一〇円(約一万円)だそうだ。」とすすめられ、亀戸の東京モスリンに勤め始めました。前借金は一〇円で五円を家に、残り五円で羽織を買いました。
上野駅に着いたら社員が迎えに出ていて、市電に乗せられ、終点(押上)から歩いて工場に行きました。東京モスリンは現在の墨田区都営文花団地がある場所です。「東京というから街のなかにあるものと思ったら、田んぼのなかでした。」工場 内の寄宿舎の塀は
高く屋根まで
もありました。
(地図③が東京モスリン)
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午前0時交代の一日十二時間労働
四日目から、ヒダが沢山ある長いスカート、長袖のブラウスに感激しながら工場で働き始めました。休憩室はなく、床にべったり座るか、箱をひっくり返して座りました。仕事は、縦糸三〇〇〇メートルを巻いて仕上げるところで、糸が一本でも切れると機会を止めずに糸をつなげる作業でした。
一ヶ月働いての賃金は一日一八銭(約一八〇〇円)、食費が一〇銭なので、手元には八銭しか残りません。三カ月間は見習い期間で、外出は許されません。昇給は年2回。一九一四年の正月から一銭上がったものの、前借金一円と強制貯金一円が引かれ、手取りは前より下がりました。
見習い期間が過ぎると深夜労働が始まりました。正午から午前零時まで一週間働き、翌週は午前零時から正午まで働く、二交替制です。風呂は銭湯の倍ほどなのに、一〇〇〇人もの女工がはいるため、いつ行ってもいっぱい、やっと入れても垢でどろどろのお湯でした。ほっと一息をつくともう夕方、睡眠時間は四~五時間でした。
叔母さんの解雇、工場の食事、ストライキ
山内みなと一緒に工場に入った叔母さんは、勤め始めて一年半ぐらいたった頃に、第一次世界大戦で羊毛の原料が輸入制限され操業短縮になって解雇されました。みなは「おらの叔母さんの首切らないでくれ、おらは叔母さんのおかげで東京にこられたのだ、成績が悪ければ一生懸命やるように言うから」と一人で事務所に行って頼みました。でも聞き入れてもらなかったのです。
寮の食事は、朝食に南京米のぼろぼろのご飯と味噌汁、たくあん三切れぐらいでした。夕食には魚(サバ、イワシかニシン)がときおりつきました。
会社には原料を運ぶ臨時工が常時五〇人くらいいました。食堂で昼食を食べることはできず、外で弁当を立ち食いです。お湯一杯もでません。みなは会社に、食台と湯水を与えろと無署名で訴えました。半月ほどたってから会社は新しい食卓と大やかんが五個用意され、すっかりうれしくなりました。
会社に学校があり、勉強をしたいと入りました。最初は六〇人ほどだったのですが、二年後の卒業の時には三〇人ぐらいに減りました。女工は三千人もいたのですから、ほんの一握りで、学校は看板でした。
入社した翌年の一九一四年六月二〇日、朝。工場に出ると、男工、工場監督助手(女)が「仕事をやめろ、外に出ろ」と呼ぶ声ともに、エンジンが止まり、みんなが入口に殺到しました。ストライキが始まったのです。