下町労働運動史10 大正時代2

下町ユニオンニュース 2012年1月号より
大正時代の下町労働史 その2 
小畑 精武
 
東京モスリン吾嬬工場ストライキ ㈠ 
大正時代は現在生きている私達にグッと身近に感じる時代です。私の父は一九一四年(大正3年)一二月生まれ、すでに亡くなっています。義理の父は翌一五年二月生まれ、まだ元気でご存命です。大正といえば一九二三年九月一日の下町を壊滅させた関東大震災があまりにも有名ですが、その前に一九一四年六月に第一次世界大戦が勃発しています。しかしこの戦争に対して結成間もない友愛会は戦争反対の運動を起こすことができませんでした。それでも、不況、解雇、賃下げなどが相次ぎ、闘いは盛り上がりました。
一九一八年には米騒動、一九二〇年には第一回メーデーや八幡製鉄溶鉱炉の火を止めたストライキと今日につながる労働運動が起こった時代です。現在修復中の東京駅は一九一四年十二月に新たな東京の中央駅として建設されたもので、まもなく丸屋根の当時の姿に戻ります。
 深川の荷揚げ労働者、失業にストライキ
一九一四年七月、深川の米穀荷揚げ労働者三〇〇人が同盟罷業(ストライキ)に入りました。原因は解雇です。この労働者は米穀貿易商組合の荷揚げや倉庫の仕事をしていました。しかし貿易商組合が仕事の権利を共同倉庫組合にゆずったため、失業することになったのです。
二八〇〇人がストライキに
下町では第一次世界大戦が始まった一九一四年六月に、南葛飾郡吾嬬町(現墨田区の文花団地)の東京モスリン吾嬬工場で女工二四五〇人と男工三五〇人がストライキに入りました。不況のため六月から一一月まで作業を半減し四〇〇〇人の職工の内の一〇三二人を解雇したことで問題が起こり、わずかな退職金(一〇年の勤続で日給の2か月分、一年だと十六日分)で解雇問題は解決しました。しかし、会社は残っている労働者に対し六月十七日平均十五%の大幅賃下げ、請負者は実質四~五割の賃下げを通告したのです。株主には一割配当を続け、社員には解雇も減給もなく賞与が出ていました。それに対して六月二〇日交代起床の鐘を合図に女子は寄宿舎に男子は押上倶楽部に集結し、二〇〇〇人余がストライキに入ったのです。会社はあわてました!翌日会社は一二月からの賃金復旧を約束してストは終わり、その後六月二八日には七~八〇名の有志が本所押上倶楽部に集まり工友会が組織されました。
ストライキを禁じた治安警察法
対抗する会社が七月一四日工友会の幹部一二人を解雇したため、ストが再発。このストでは今西会長が治安警察法第十七条違反で小松川警察署に拘引され、有罪とされました。さらに十人が解雇され、指導部を失った争議は結束が崩れ労働者の完全な敗北に終わったのです。第2次ストの後、二十二名の解雇問題と今西会長の裁判が残されました。今西会長は「同盟罷工(ストライキ)」を扇動したとして、治安維持法第十七条違反で起訴されていたのです。
工友会は友愛会鈴木文治会長に支援を要請、彼は警察や会社と調停に入りました。結果、今西会長は釈放されたものの懲役三ヶ月、三年間の執行猶予の判決、一二人は金一封(十円)の涙金で終わったのです。しかし、東京モスリン争議以降も今西会長たちはがんばって千数百人を有する友愛会本所支部結成につながっていきます。
鈴木文治と山内みな
ストライキの結果は敗北に終わりました。しかし、この争議は結成間もない友愛会の鈴木文治会長が支援に入ったこと、後に友愛会初の女性理事になる紡績工山内みなが若干一三才で争議に参加し活動家として誕生したことが特筆されます。
(参考)「日本労働組合物語・大正」大内一男、松尾洋(一九六五、筑摩書房)