下町労働史 96
下町ユニオンニュース 2020年 1月号より
小 畑 精 武
書き残した争議
水の江滝子たち松竹少女歌劇団(浅草)の争議は本誌六二号に書きました。
日本特有なカツベン
映画「カツベン」が上映されています。映画が活動写真といわれた無声映画時代だった時に活躍した活動弁士が日本特有の映画説明スタイルを生み出し活躍する様子を描いた周防正行監督の作品です。
映画は一九世紀の末に発明され、一九〇三年には浅草に日本最初の常設映画館が開業。一九一三年日活撮影所が向島白髭橋のそばに作られました。撮影所は七千九百㎡敷地、現像所、俳優部屋、事務所、社宅もありました。しかし関東大震災で壊滅的打撃を受け、撮影拠点は京都に移されました。
当時の映画は音声がない無声映画でした。
無声映画に状況説明や会話を加えるのが活弁士で、音楽を分担する楽士とともに無声映画にはなくてはならない役でした。とくに日本では字幕を使わず弁士が自分流の台本を書いたそうです。
しかしトーキーの普及により弁士は段々と失職していきます。解雇に反対した弁士はストライキに入って行きます。一九三二年には常設映画館従業員の争議は百十一件に及んでいます。五月一日メーデーに合わせ日活直営二四館ゼネストに入りました。神田神保町界隈は大騒ぎとなり、同時に総理大臣犬養毅が殺害された五・一五事件が勃発し騒ぎの拡大をおそれた警視庁が強制調停に入、組合側の要求が全面的に実現したそうです。
深川扇橋にあった映画館の争議は解雇予告手当と半年分の解雇手当を要求。館主は同意しましたが、顧問弁護士が同意せず、ストは二ヵ月以上長引き、組合は当時流行していた糞投げで弁護士宅を攻め、要求が認められたそうです。
徳川無声、大辻司郎など一部の弁士は俳優や司会者、漫談などに転身していきました。
楽士の闘いと水の江滝子との共闘
楽士たちも大量解雇、全員減給に対して即座に争議に入ろうとしましたが、自分たちだけでは弱いので水の江滝子たちと合流をはかります。音楽部と楽劇部は二八項目におよぶ「待遇改善書」を専務に提出。そのなかには、退職手当最低六カ月、勤続一年につき一か月増、本人の意思による転勤、最低賃金制の制定、定期昇給の実施、公傷治療費の会社負担と欠勤の給料全額支給、運動手当支給、衛生設備・休憩室の改造、楽屋・トイレの増設、公休日の設定、軍事招集中の給料全額支給、さらに中間搾取の廃止(監督の馘首)、医務室の設置、生理休暇制定など深刻なものでした。水の江は解雇されますが客の支援を得て撤回させました。(六二号)しかしカツベン士や楽士たちの争議は時代に勝てず終わりました。
新聞販売店、牛乳販売店での争議
一九二八年は史上初めての普通選挙が実施された年です。労農党の山花秀雄は四区(本所・深川)の唐沢清八を応援します。選挙の当日は「寺尾牛乳販売店」(本所区)の争議指導で捕まっていて市ヶ谷刑務所に拘留されていました。当時の演説会は必ず大盛況で、広い講堂には一五〇〇人は集まり演説していても張り合いがあったそうです。
警視総監から内務大臣の報告によると新聞配達の争議も数多く発生しています。当時から朝日、読売、東京日日(毎日)が発行されていました。三一年三月には曳舟にあった読売新聞販売店の九人の配達員全員が待遇改善と処分問題で争議に入ってます。上部組織は関東新聞従業員会です。各家庭に窮状を訴えに回りました。店主もチラシをまきます。結果、解決金一〇八円と謝罪で解決しました。
【参考】 読売新聞社会部「東京今昔点綴」中公新書クラレ 中山千夏「タアキイ‐水の江瀧子伝‐」一九九三、新潮社 山花秀雄「山花秀雄回顧録‐激流に抗して六〇年」一九七九、日本社会党機関紙局 警視総監から内務大臣、社会局長官あて報告一九三一年三月