下町労働史 95

下町ユニオンニュース 2019年12月号より
     小畑精武
 これまで下町で闘われできた争議についてほぼ時代順に書いてきました。一〇〇回でこの戦前の連載は終わる予定で、終わる前に落としてはならない争議について書きます。
富士ガス紡績押上工場争議 
 一九二〇年七月に闘われた富士紡績争議の目標は「労働組合権利の承認」でした。組合が組織されたのは一九一四年十一月で友愛会紡織労組本所支部です。会員は一八〇〇人、そのうち女性は一四〇〇人でした。会社は処女会をつくって切り崩し、五人の組合リーダーを解雇。さらに大部分の女工を寄宿舎に閉じ込め、争議団本部との連絡を絶ちます。一八日には友愛会などが会社前で示威行動をしますが、多数の警察官に遮られ、なぐられ、検挙者も出ました。
 社長は労資協調をすすめる協調会の理事であるにもかかわらず“労働組合権”の承認を否定する始末。友愛会の機関誌「労働」は『・・協調会がいわゆる労資協調の仮面を脱して、資本主義擁護を暴露した・・』と批判を展開しています。
二二日会社は一週間に及ぶ組合の団結力に屈し「団結の自由」を認める回答をします。同時に会社は争議団の中心を担った三人の女性リーダーを解雇、国へ帰し、二五周年の慰労金を出し組合の切り崩しをすすめます。その結果組合を守ろうと最後まで残った組合員は三七人。外部から示威行進や演説会、カンパなど支援が広がりますが、友愛会の紡織労組は惨敗に追い込まれていきました。

 機械打ちこわし(ラッダイト)
  南葛飾郡吾嬬町(現墨田区)の東京モスリン近くの足立機械製作所では一九二一年一月に争議が起こります。「職工への扱いが悪いので「鬼工場」、今ならブラック企業です。そこへ就職した東京鉄工組合のリーダー泉忠は組織化をはかり九〇余人の職工ほぼ全員を組合員化します。
 会社は金一封で買収をはかりますが組合に拒否され一月六日全員を解雇。対する組合は十一日には東京鉄工の組合支部を結成、職場復帰か解雇手当出すかの要求をしましたが、会社は拒否。
 十二日夜、四〇人ほどの職工がたいまつを持って工場に乱入し、工場主ほか二人をなぐります。他方「争議団を解散した」とのデマ情報を流し警察を安心させ、暗闇の工場に戻って機械に石油をかけ燃やし十何台かの旋盤をハンマーで打ち壊しました。機械の打ち壊し=ラッダイトは十八世紀初頭の産業革命期にイギリスの労働者が失業の脅威に対して行ったものです。労働組合の団結権、団体交渉権、スト権が認められなかった時代の怒れる労働者の抵抗でした。
さらに争議は激発し直接行動、サンディカリズムの動きが強まっていきます。
亀戸事件の犠牲者加藤高寿
 この闘いのなかに二三年亀戸事件で虐殺される共産青年同盟の加藤高寿がいました。栃木の矢板町で生まれた加藤は十四歳で上京し、浅草の化粧品店に就職。その後新聞配達、自由労働者になり、「社会のドンゾコの生活」をし、立教中学に入学するも教師に反抗し放逐されます。
 その後、セルロイド工場で働いていた時一九年に渡辺政之輔が創立した全国セルロイド工組合に加入し、葛飾に四〇〇人の四つ木支部を結成しますます。好きな酒やたばこをやめ給料をはたいて東京帝大新人会の機関誌「デモクラシー」を買って労働者に配布、だが解雇され新聞配達へ。労働問題演説会や押上の富士紡績の争議支援にも参加しました。
足立製作所の工場打ち壊しにも参加。事件では四〇人が検挙され、泉に懲役二年、加藤は一年二ヵ月の刑に。出所後二二年十月に渡辺政之輔や川合義虎たちとともに南葛労働協会を結成しました。
 【参考】
「「日本労働組合物語 大正 」大河内一男、松尾洋、一九六五、筑摩書房
「日本残酷物語・近代の暗黒」下中邦彦、一九六〇、平凡社
「亀戸事件‐隠された権力犯罪」加藤文三、一九九一、大月書店

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