下町労働史 92

下町ユニオンニュース 2019年8月・9月合併号より
                                小畑精武
労組解散、なだれ打つ産業報国会
  一九四〇年七月七日、当時最強の東交が解散、前日の六日には社会大衆党が解党大会、八日には総同盟の中央委員会が「自発的な解散」を決議。七月二一日に全国大会にかわる全国代表者会議を開き満場一致で承認し二八年の幕を閉じました。以後、右派の愛国労働組合全国懇話会が八月一八日に、その後も皇国海員同盟、海員組合と労組解散が続きました。
ここに至る過程で労働組合と産報をめぐって社大党の中に大きな分岐が生まれました。旧社民党系の総同盟と旧日労党系の全労が三六年一月に合同してできた全総(全日本労働総同盟)に再び分裂をもたらします。
 すでに三八年一月社大党は第七回全国大会で「労資混然一体の労働組織の確立と労働条件の国家統制を通じて労働生産性の向上と労働者生活の安定をはかる」と産報へ労働組合を解消させる方針を打ち出していました。しかし旧総同盟系の松岡駒吉、西尾末広たちは自主的労働組合の存続をはかり、そのうえに産報に協力する二本建方針を取ろうとしました。権力に屈しつつもあくまでも労働組合の「自発性」を解散の最後まで貫いていったことを見失ってはならないと思います。
2019-89
企業内産業報国会機関誌
 下町では、三九年六月に東京モスリン(大東紡績)吾嬬工場(墨田区)の関東紡織労働組合吾嬬支部が産業報国会運動を積極的に推進するという理由で全総からの脱退を決議しています。これに対して、全総本部は、脱退防止に努めるべき副組合長が脱退を策動したと副組合長を除名しました。全総本部の中央委員からは、全総は個人犠牲と公益優先の上に遂行する戦時体制とは一致しない、部分的な組織から経営と労働の一体的な産報に改組することなどが提案され、中央委員会開催を要求します。本部の松岡、西尾と旧全労系の河野密ら両派の代表が分裂を避けようと懇談をしますが決裂、旧全労系は産業報国倶楽部を提案し、総同盟から分離することになりました。
 二本建を貫徹できず産報化へ 
 三七年一二月四〇〇人が検挙された人民戦線派事件で、東交からも錦糸堀(四人)、柳島(八人)、本部の島上善五郎(後に初代総評事務局長、衆院議員)など三七人が検挙されました。東交執行委員会は翌三八年一月に被検挙者の資格を停止し、共産主義的行動が明らかになれば除名することを決議します。政治方針も右傾化する社会大衆党との協力提携を打ち出します。弾圧を受けた錦糸堀、柳島、青山支部から皮肉なことに労働組合を否定し産報に傾く東交解消運動が台頭してきます。東交は必死に産報化に抵抗し、産報現場役員の選任方法は選挙とするなどいくつかの「諒解事項」を獲得しますが、矢は折れたのです。
「産業の振興をもって国に報いる」との産業報国運動は、最初「事業主と労働者との自覚的協力機関」として出発し、厚生省も「産報をつくっても労働組合の解散は強制しない」と言明していました。しかし、当初の労働組合との二本建から産業報国会一本への圧力が強化され、軍国主義体制に組み込まれました。
雪崩打つ産報化、軍国主義体制へ  
 四〇年一一月には「勤労新体制」により、中央本部―道府県産報―支部(警察署ごと)―事業場ごとの単位産報の型ができあがります。都道府県知事(東京は警視総監)を会長に警察部長、厚生官僚、事業主などが配置され、地方支部長は警察署長、役員には事業主代表や特高係、工場係の刑事が就任し、工場・事業場の会長には社長(工場長)が就きました。
四〇年には6万495団体、481万5478人が、四一年には8万5522団体、546万5558人と組織率九〇%、五五〇万人に達する勤労者が産報に組織されました。日雇い労働者、労務供給業者、作業請負労務業者は大日本労務報国会(一九四三年六月設立、12万余の業者、62万五千人)に組織されました。他方、労働組合は解散に次ぐ解散で四二年にはわずか三組合、一一一人と壊滅していきました。それでも下町労働者の抵抗は続きます。
【参考】大河内一男、松尾洋「日本労働組合物語 昭和」一九六九 、東交史編纂委員会「東京交通労働組合史」一九五八