下町労働史93

下町ユニオンニュース 2019年10月号より
小畑精武

嵐をついて・戦争下での印刷工 

 「戦時中印刷労働者の闘い」を本誌八〇八一八二号「出版工クラブ」で取り上げました。この度、杉浦正男さんがまとめた「出版工クラブ」がオーストラリアのアジア、日本労働問題の研究者ケイ・ブロードベントさんによって翻訳され刊行されました。(写真「嵐をついて」)私も微力ですが彼女の取材活動に協力しました。六月上旬に刊行された本を一〇五歳になる著者の杉浦正男さんに届けるためにケイさんは訪日されました。(残念ながら私は入院中で会えませんでした)
英語版 戦時中印刷労働者の闘い
 一九四〇年の出版工クラブは一五〇〇人ほどの会員数に増えていきましたが、特高からの「組織解散」の圧力が強まり、八月三一日クラブは「偽装解散式」を愛宕署特高臨席のもとにおこないます。しかし、その後も活動を続けました。一〇月には「日の出」「あけぼの」「若葉」の旅行会を設立、約五〇人で奥多摩小仏峠にハイキングをしています。吟行社(俳句の会)「あさぎり」「あをぎり」を継続させ新たに「なでしこむつみ会」を結成しています。むつみ会は料理講習会もやっています。
 こうした大衆的な活動は四一年にも広がり、一月には若葉旅行会で那須高原から白河越え、七月には富士登山、四二年には赤城山、昇仙峡などの旅行を実施し、青年たちの横の連絡は保たれていました。俳句会も各職場をつなぎ、月一回発行の句集は喜ばれたそうです。
 そのなかで婦人部の活動についてそのまま継続か、旅行会に含めるかで、意見が割れましたが、組織を残すことになります。婦人部は六〇人ほどが参加し、南多摩丘陵、向ヶ丘へのハイキング、料理講習会、演劇研究会などの活動を続け、組織を維持しました。
 明文舎への幹部集中
 四一年六月には印刷業における「新体制要綱」が示され分立していた工業組合をまとめ全印刷産業を戦争のために一本化する日本印刷文化協会が発足します。一本化の制約により旧クラブの組織人員は減っていきます。さらに、戦争の拡大は中心的活動家の徴兵をもたらし、さらに印刷会社から軍需工場への徴用も増えていきました。
中国侵略から米英も相手とする太平洋戦争が一二月八日の真珠湾攻撃により始まります。クラブの中心メンバー柴田隆一郎は「アメリカとの戦争になれば敗北する。運動には晴れ間もあれば曇り日もある」といつも言っていたそうです。
そして、中心メンバーを散らさないでまとめておくために、企業整理により経営を放棄した印刷会社明文舎と交渉し、その工場の経営を請け負います。ここでは毎日職場で連絡を取り合うことができました。工場の仕事は忙しかったが自分たちが仕事の支配権を持つ職場は“夢のよう”でした。しかし、開戦後に「言論、出版、集会、結社臨時取締法」が制定され、国民の政治的自由は根こそぎ奪われていったのです。
 反戦ビラから芋づる検挙へ
 四二年夏に、組織を伸ばしつつあったオフセット工の一人が横浜港で反戦ビラをまいたのがきっかけとなって柴田は検挙され横浜に。一一月には第二次検挙で明文舎の主なメンバーが検挙され、その中には杉浦正男さんも含まれていました。
柴田と杉浦とは仕事をめぐって対立し、杉浦は事実上会社を辞め柴田と冷たい関係になり、運動からも離れたかたちになります。しかし柴田は杉浦に対して暖かい配慮を忘れず、婦人部責任者との結婚をすすめ二人は結婚となりました。
検挙事件の取り調べが終わると柴田はじめクラブの主だった活動家は横浜拘置所に移され、ほとんどが日本の敗戦まで拘置されます。(実際には一〇月六日)栄養失調になる人が多く柴田は四五年二月一八日に三八歳で獄死。三月一〇日には杉浦の妻は東京大空襲で避難した毛利小学校(江東区)で亡くなりました。
【参考】「「戦時中印刷労働者の闘いの記録・出版工クラブ」 一九六四、杉浦正男編著

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