下町労働史 83
下町ユニオンニュース 2018年8月9月合併号より
戦前の下町労働史 その四五 東京交通労組(東交)の苦悩
小畑精武
時代は前後します。東交労働組合運動は一九三四年の警視庁調停による大争議の解決後も粘り強く進められました。
解決後、財政赤字の累積が市電財政を破綻状態に追い込みます。一九三五年三月に東交は、麻生久(社会大衆党書記長)、松岡駒吉(総同盟会長)浅沼稲次郎(戦後社会党委員長)を含む市電更生審議会を設け、九月には更生案を発表し、市長にその実現を要請しました。
嘆願書を市長に提出(1937年)
経営再建「民間市電更生審議会」
この案は単なる理想案ではなく現実案でした。内容は公共事業として「市民の足は市民のもの」として市民が責任を負担する、市電の赤字公債を低利長期に借り換える、料金引き上げは行わないなどというものです。
一〇月の東交定期大会で、㈠全従業員の賃金三割引き上げ、㈡民間市電更生案の即時実施を要求します。
組合は、市民宣伝ビラ、家族大会、従業員大会、演説会などを各地で開催し、闘争を盛り上げ、再度嘆願書を当局に提出。当局からの回答は、㈠全員が一致協力すれば増収分の半分を精励手当にあてる、㈡民間市電更生案は部分的に共鳴でき、できるだけ実行に移す、と回答。ただし二時間以内に回答なき場合には白紙に戻すと威嚇してきました。警視庁は、組合幹部が地下にもぐることは非合法戦術になると平和的交渉をしきりに勧告。組合が当局回答に不満の意思を示し、引き上げ際に警視庁は組合幹部、闘争委員の数名を検挙。このことを予想していた組合は準備してあった「第二指導部」が「八時間勤務順守の指令」を出し、十月二二日早朝から一斉に怠業(サボタージュ)に。同時に、午前二時に釈放された指導部は情勢判断の厳しさを考慮し、四時間に及ぶ議論の末、当局の回答を承認することにしました。協定は二・二六事件をはさんで四月にようやく成立します。
京成バスの組織化、東交解消へ
二・二六事件は当時の軍国主義への流れと軍事インフレによる物価高、生活の困難さが背景にあります。山手線の駅を起点とした郊外電車やバスが広がっていったのもこのころです。
当時の東交は「企業別労組ではなく地域産業労組」でした。一九三六年九月に東京環状バス三河島営業所(荒川区)に全員加盟の東交三河島支部が結成され、㈠物価騰貴による賃上げ二割引き上げ、㈡東交支部に対する圧迫干渉の排除などを要求し、一時サボタージュ状態になり、賃上げ一割でいったん解決へ。
一九三七年一月三〇日に寺島営業所(墨田区)全従業員によって東交京成支部が結成されます。会社は組合幹部の東交からの脱退を強要し、組合がはねつけると幹部一四人を解雇してきましたその後環状バスが支部長他二名を解雇。さらに東交加盟の玉川バス、目黒バス、東横バスが三七年五月ストライキに突入、ゼネスト状態を恐れた警視庁は東交委員長以下五〇数人を検挙しました。
残念ながら、五月争議は以下の「屈辱的な解決条件」により収拾され、各地に広がっていった東交支部は壊滅状態になりました。
一 即時東交支部を解消し、今後も加盟しないこと
二 会社は、将来産業協力を精神とする穏健合法的なる単独組合に対しては組織を承認する
続いて起こった王子電車の東交支部の一四日に及ぶストについても三〇人を解雇し、警視庁の労働課長による右記条項と二七名の復職と三名の退職金増額の調停で解決。
一〇月大会で「闘争主義放棄、産業協力」の新方針が決定され、戦前の労働運動をけん引してきた東交は風前の灯になっていきます。
【参考】「東京交通労働組合史」(東交史編纂委員会、一九五八)