下町労働史 84

下町ユニオンニュース2018年10月号より
戦前の下町労働史 その46  小畑精武
  メーデー禁止・広がる中小企業の闘い
一九三六年二月の陸軍若手将校による二・二六クーデタ事件は鎮圧されましたが、メーデーはその年から一〇年間開催禁止になります。三七年七月七日に中国盧溝橋で日中軍が衝突し、泥沼の日中戦争がはじまり、三六年と三七年の総選挙で社会大衆党は「国民生活の安定」を掲げ一八議席、三六議席と大躍進をとげました。
しかし、人民戦線派の日本無産党は当選が加藤勘十(東京南部・西部)ただ一人に終わり、東京東部と北部からなる東京六区では総同盟会長だった社大党鈴木文治が三九万二千票を獲得し全国トップ当選。下町の中小企業での賃上げ、解雇反対、労働条件、生活改善への闘いも広がり、労働争議への参加人員は戦前最高の二十万人を超ました。
戦争への道を突き進んでいく日本社会のなかで中小企業労働者はどのような闘いに立ち上がったのでしょうか?警視庁から内務大臣への報告からみてみましょう。
   江戸川「昭和高圧」正規雇用求める
一九三八年三月三日江戸川区東小松川(今の区役所裏都営住宅付近)の昭和高圧で待遇改善の争議が始まりました。当時の昭和高圧は、本工の雇用はなく臨時工だけで男工六二名、女工一九名。賃金は、男工が最高で日給が二円、最低一円と二倍の差があり、平均は一円一五銭。女工は日給が一律八〇銭、最高も最低も同じです。退職金も福利施設もなし。争議参加者は男四七人。組合も応援団体もありません。
元昭和高圧の跡(都営住宅)
元昭和高圧の跡(都営住宅)
 問題は当初は臨時工だが一月後には本工にすると約束したのに、それを無視し臨時工としての更新契約書に捺印を求めてきた裏切りに対するものです。(今も同じような争議が起こっていますね!
 労働者は、三月三日始業前に協議し以下の要求を決めます。①臨時工は一カ月とし実行すること、②二時間残業は三分、四時間残業は七分に、③夜勤者には日給二日分を、④日給者には現行の五割以上を、⑤健康保険を臨時工にも適用すること
 小松川警察署が労使を説得し解決へ
労働者はこの要求を会社に提出しますが、会社は無視。このままでは、対立が激化することをおそれた所轄の小松川警察署は労使双方を呼んで説得に入ります。労使双方が納得して、争議は一転して解決に向かいました。その内容は、①要求条項は無条件に会社に一任する、②要求条項で会社が決定した事項は三月一三日までに発表する、③決定事項は三月一日にさかのぼって適用するという会社に有利な内容。
戦後一九六三年に、昭和高圧には全国一般東部一般労組が結成されます。工場はその後茨城県土浦に移転しました。
 警察のあっせん・調停の増加
足立区の東京真綿製作所は一九三八年四月工場閉鎖問題から総同盟関東紡織労働組合の指導のもと争議に入りました。争議参加は全員の二二七人ですが、当初は三八人から始め、争議参加組合員は過半数の一四二人となります。争議開始は三月二〇日、以後毎日交渉を行い、二五日にはサボ状態に入り、会社は休業帰宅を命じます。二七日には平均月給二円で合意し、二八日には所轄西新井警察署で交渉を継続、警察署と警視庁労働課があっせん調停に入り、下記の覚書で解決しました。
解決には西新井警察署と警視庁が仲介に入り合意に達し、労使は下記覚書を交わしました。①全従業員へ一四日分の手当のほか勤続一ケ月につき一日分の日給を支給する、②配分は総同盟に一任する、③将来作業を開始する場合は総同盟の富田主事(書記長)を通し今回の解雇者中の希望者に対し優先採用を善処する。
 職場復帰の「優先採用権」を獲得
このほかに、組合からの嘆願事項についても承諾する項目と否認の項目を明らかにしています。待遇改善では、賃金の三割引き上げは否認、皆勤賞与の支給、食堂の改善と更衣室、手洗い便所などの改善などは承諾となりました。
覚書③の「将来作業開始の場合の希望者優先採用」は、いわゆる「先任権」の一種で、画期的な内容といえます。また、警察の対応も露骨に検挙など実力行使をちらつかせてのあっせん調停ではないことも見逃せません。
 ほかにも足立区の日本製靴での臨時工解雇などの争議がありますが、次回にまわします。
【参考】「警視庁内務大臣、厚生大臣あて報告)