下町労働運動史 68
下町ユニオンニュース 2017年4月号より
戦前の下町労働史 その三〇
小 畑 精 武
東京電燈の組合結成・争議(上)
一九二六年(大正一五年)の前年二五年には普通選挙法が成立、半面で治安維持法が可決。二六年には労組結成がすすみました。
戦後東京電力となる東京電燈では前年十一月に秘かに従業員組合が結成され組織拡大を進めます。やがて組合活動は表面化し会社は組合つぶしを始め、西村祭喜委員長を呼びつけ「組合を解散するか、さもなくば辞職願を出せ」と強迫、委員長は「労働者が労働組合を組織するのは正当な権利である。それを干渉される理由もなければ、したがって組合を組織したが故に辞職する理由はない」と拒絶。四月十五日会社は二人を解雇します。
翌、一六日に二三〇名の代議員が参加して「電気産業の社会的使命を完全に果たすための生活の安定と向上」を宣言し創立大会を開催。本部を下谷区御徒町におきます。翌日本社に①組合を承認すること、②組合結成にあたり犠牲者を出さないこと、③従業員の待遇改善の嘆願書を提出しました。会社の組合つぶしを職場の組合員ははねつけます。四月二二日、会社社長と副社長の二人と組合代表一二名による交渉が行われ、翌二三日の回答は、「組合は認めない、要求条件を明示せよ」というもので期待を裏切るものでした。
組合から「東京市電気局(市電)では組合を認めているではないか」と詰めるも「組合承認は団体交渉権を認めることになる」(戦後の日本国憲法ではあたりまえ!)と会社は拒否。結局以下の回答が示されます。①重大問題なので時期を待つ(今は組合を認めない)
②一とからむので言明できない、③趣旨にそって努力する。これでは組合は納得できません。交渉を打ち切ります。
組合結成を認めない会社
こうした状況は、逐次警視庁から内務大臣や東京警備司令官などに報告されました。官憲は組合の裏に「政治研究会」があって画策し「そうとう紛糾する」ととらえていました。組合は、社長との交渉が実現したことをもって「過去半年間の隠忍持久的組織運動の結果、公明正大な主張のもとに組合が承認されるに至った」と評価し、「組合加入は自由になった」と、加入を呼びかけるチラシ「申込殺到!未だ加入せざる従業員諸君!即刻加入せよ!東電従業員組合に団結せよ!」と職場ビラと同時に市民も一万枚のチラシを四〇人で戸別配布します。しかし、会社はなかなか組合を承認せず組合切り崩しを続けます。
組合は二四日に浅草のお寺で従業員大会を開催。「組合加入者への圧迫をしないこと、犠牲解雇者を復職すること、初任給の引き上げ」など新たに五項目を要求します。事態は緊張し、組合は本部近くに争議本部を借り、支援を訴えます。これに呼応して日本労働組合連盟本部が抗議書を会社に提出。組合大会では、総同盟、東京市電自治会(島上善五郎)、東京市従などが激励に駆けつけます。
苦渋の選択「組合解散」
二八日には一部職場がストに突入。会社は「全市を暗黒化するストライキ」を挑発。組合は市民向けの「東電会社は全市を真暗闇にせんとす」を三万枚配布。自動車隊は職場オルグへ。会社は「二四時間以内の争議団解散、さもなければ解雇もありうる」と最後通告し組合は追いつめられていきます。
ここに支援してきた争議経験豊富な東京市電自治会が仲介役として登場。「争議の目的は従業員の待遇改善にある。会社との最大の争点である組合認知問題で譲歩して、いったん組合を解散してもまた立ち上がることは可能だ」との助言があり受け入れます。
五月一日会社は①労働条件は改善、②組合参加者の解雇はしない、③争議中の欠勤は出勤とする覚書をつくり、争議解決金七五〇〇円を払うことになります。こうして従組は解散となります。「一歩前進・二歩後退」の結成でしたが後日再び従業員組合として団結し闘いに立ち上がることになります。
【参考】佐良土英彦「東電組合運動史」一九三四(非売品)
法政大大原社研「警視総監の内務大臣宛報告書」