下町労働運動史44 戦前の下町労働運動史7
下町ユニオンニュース 2015年2月号より
東大セツルメントのその後
小畑精武
労災補償法の原点
前回は関東大震災後の隅田川に架かる橋の架け替えを取り上げました。そこで働く労働者の中には橋の基礎工事のために高圧の潜函に入って病気になった労働者がいました。セツルメントの医療部ではなかなか診断が出来なかったので、東大の文献で調べた結果、ケーソン病であることが判明。医療部のセツラーたちは専門家の末広教授に報告、相談し、教示を仰ぎました。
当時は工場労働者には工場法があって傷病保護がありましたが、屋外労働者にはなかったのです。仕事で怪我をした場合欠勤となり、賃金がもらえないばかりか、治療費も自己負担。直接生活にひびき貧苦にあえぐ状況を生み出していました。
末広教授は新しい立法措置の必要を認め、帝国議会への請願をすすめました。セツラーたちは請願書をつくり、署名運動を行い三五〇人の屋外労働者の署名を集め、清瀬一郎弁護士(後の東京裁判弁護人、衆議院議長)を紹介者として議会へ提出しました。
請願はただちに採択され、翌年「労働者災害扶助法」として公布され、後の労働者災害補償保険法の原点となったのです。
児童部の唱歌指導
児童部はセツルハウス落成の日に始まりました。「それまでのじめじめした路地が遊び場であった子供たちにとって、セツルメントは物珍しさもあって、格好の遊び場になった。百人から二百人にも及ぶ子どもがハウスの中に入ってくる。この子どもたちを外に出すことがまず仕事で、運動場で遊ぶ、ベランダで話をすることから、日課が始まった。」ブランコも、鉄棒も、図書室もありました。しかし本の数は少なく、金持ちの家を回って児童書を寄付してもらいました。
後に「歌ごえ運動」で有名になる良家の関鑑子も唱歌指導のためにセツルメントを訪れています。このことは新聞にも取り上げられました。関は友人から寄付を集めピアノをセツルに寄付しました。
託児部の誕生
児童部の活動から託児部が生まれました。
同じ地域の賛育会では乳幼児の生活保護を目的とする託児所を設け、セツルにおいても機運が高まり一九二五年には一五人の幼児を集め、中庭のベランダ、砂場と子ども室を利用して、ミニ託児所を開設しています。
一九二六年四月には託児所が正式に開設。
翌二七年には児童館も建設されました。保母も二名に増員しています。研究熱心なセツラーたちは他園の見学や研究を通じて独創的な託児システムをつくり、児童部も独自のテキストをつくるなど総合的教育をめざしたそうです。
セツルの生活協同組合化
セツルをいつまでも「上から与える」ものではなく、労働学校で目覚めた労働者が自主管理する消費組合としていくことが、セツルメント内部での論争を経て決まります。一九二八年一二月、総会で柳島消費組合の設立にゴーサインが出ました。
「組合員募集」のビラを電柱に張って歩いたが、一人も来ません。次に訪問カードを持ってセツル周辺を軒並み訪問。ようやく八月一日には一八二人で柳島消費組合が発足。児童館玄関前が仮の配給所になり、米、みそ、醤油、砂糖、茶、サイダー、石鹸、歯磨き粉、マッチの九種類が並びました。
高い理想のもとに出発した生協でしたが、採算をとることが難しく、学生の出入りも激しく、四年目には廃止論も現れました。その後柳島消費組合は関東消費組合に加入していきます。セツルとの混同をさけるため地元労組員を消費組合長にします。しかし時期尚早で組合の弱体化につながり、やがて経営難に直面していきます。
【参考】宮田親平「だれが風を見たでしょう-ボランティアの原点・東大セツルメント物語」文藝春秋・一九五五年