下町労働運動史45

下町ユニオンニュース 2015年3月号より
戦前の下町労働史 その八
小畑精武
渡辺政之輔のその後
   左翼労働組合の追求  
関東大震災時の亀戸事件虐殺を逃れた渡辺政之輔は本所太平町の事務所に母や妻の丹野セツと居住し、運動・組織再建活動を続けます。二三年一二月に市ヶ谷刑務所を仮出獄した渡辺政之輔は二四年二月に亀戸事件犠牲者合同葬を青山斎場で営み、さらに南葛労働会と江東自転車組合を合同して東京東部合同労組を設立し、総同盟に加盟します。
渡辺はその大会に参加しました。大会の印象を「労働階級の利害に関する施設の討議がなされた。・・ブルジョアの議会に対してプロレタリアの独立した議会であるという深い印象を受けました。」と述べています。
実際的な施設としては、本所太平町の「総同盟職業紹介所兼東部合同労組合本部」、日暮里の「日本労働学校分校」、大島の「会議室権宿泊所」があげられます。
その後、総同盟内部の対立から分裂へ、総同盟関東地方評議会が二四年一月に発足、ここに左翼労組連合が日本ではじめて結成されました。会長には東部合同の藤沼栄四郎がなり、二五年には東京合同労組に発展しました。
 
  強力なオルグ力
 二五年五月には、左翼労働組合、日本労働組合評議会は三二組合、一万三千六百人となり、総同盟の三分の二に達しました。前年二月は東部合同のわずか一〇〇名から驚異的な拡大です。渡辺の強力な組織力の結果です。
七月には、普通選挙の実施を前に、東京合同に本部を置く無産党建設、失業反対委員会を組織します。東京合同主催の演説会に出席し「働かせろ、食わせろ」のスローガンを提出しました。同時に、日本共産党再組織と無産政党組織化の活動を続けます。九月にソ連金属労組委員長が訪日した際には本所太平署に検束され、その時にロゾウスキーの「国際労働組合論」を読んだそうです。
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  工場委員会戦術
評議会は二六年一月には四六組合、三万二千三百人へとさらに発展し黄金時代をつくります。渡辺は二五年にパンフレット「少数派運動の使命」を発刊。イギリスにおける少数派運動の翻訳です。「現存組織を一層強固にし、一層広く結合せしめ、そして統一をもたらさんとする」ことが少数派運動の目的でした。上からの協同戦線、下からの工場代表者会議、工場委員会戦術は「組合乗取りの陰謀屋」とのレッテルが渡辺に貼られます。
評議会の創立大会に労働組合の前提として、自主的工場委員会方針が提案されます。その理由として「一工場における労働者を不断にその工場の労働条件に注意せしめ結束せしめることは、労働組合を組織する前提である。」とし、「組織」としては「一工場を単位とすること。一工場の全労働者を包含すること」をあげ、「事業」としては「労働条件の調査、事業の管理状態の孝査と改善、工場内における一般労働教育、衛生設備の改善、組合の宣伝、教育、組合加入」、組合との関係では「工場委員会内の組織労働者は工場分会を組織する。工場分会は工場委員会内における教育と労働状態の調査を行い支部に報告する」とあります。しかし、この方針は評議会創立大会で否決されました。渡辺は「工場委員会」パンフレットを出版し巻き返し、二六年の評議会中央委員会で採択されます。
争議指導では一月に文京区の共同印刷二三〇〇人のストライキを指導しました。
共産党委員長に・・自殺へ
その後は党活動に専念し、本所太平町の東京合同本部に母と妻を残して地下活動に入ります。一二月には日本共産党五色(山形県)創立大会に出席、翌二七年日本共産党の代表団の一員としソ連を訪問。二八年三月には共産党の委員長に。三月一五日の大検挙を逃れ、上海へ、一〇月台湾の基隆で官憲に追いつめられ自殺を余儀なくされました。
【参考】「左翼労働組合の組織と政策」渡辺政之輔、而立書房、一九七二年
    「渡辺政之輔とその時代」加藤文三、学習の友社、二〇一〇年