下町労働運動史43 戦前の下町労働運動史その6

下町ユニオンニュース 2015年1月号より
                                             小畑精武
北原白秋の大川風景
 北原白秋といえば、からたちの花、ペチカ、ゆりかごのうたなど童謡を思い浮べます。童謡作家であると同時に詩人でもあった白秋は、一九二八年に発行された「大東京繁盛記・下町篇」に大川(隅田川)を下りながら観察した関東大震災後の復興の姿を描きました。描いたのは直の労働もありますが、建物、橋、工場、交通機関、機械などなどからは当時の労働を想像することができます。
 まず、炉端で玉ねぎを焼く一人の老婆を見つめ、焼鳥、おでん、かん酒、牛めし、氷などを描き、「近代無産階級の魔窟」(白秋)としての玉の井から描写を始めます。
 白髭橋のわきには鋳物工場を「怪奇な表現派の建物」として紹介。小さな蒸気船が黒煙、煤煙をあげ、対岸の橋場には石炭の山が夕焼けにそびえ、復興局の砂利場もあります。
 まもなく、浅草。架橋工事(注)に起重機が乱立し「生きたる鉄、鉄柱、鉄鋼。近代の神こそはまさしくその斜塔の頂辺に座す。」と表現しました。

復興と創造の労働 
 竹屋の渡しのそばには大学のボートレースの艇庫があり、川には塵芥(じんかい)船、モーターボート、周囲には乗合自動車(バス)、簡易食堂、そして今は宣伝とビヤホール、墨田区役所に代ったサッポロビールの赤レンガ工場が吾妻橋の墨田側にありました。
 「復興と創造と、東京は今や第二の陣痛に苦しみつつある。この大川風景に見る亜鉛、煤煙、塵芥、鉄、鉄鉄の憂悶(心配で悩み苦しむ)と生気と・・・架橋だ、開削だ、地下鉄道だ」駒形橋はまだ未完成、桟橋の土舟、トロッコ、作業員が泥水と汚水とたたかいました。厩橋は震災の烈火で焦げきったままさびてその上を市電がよろめいて渡って行きます。いすれも背後で働く労働者の姿が浮かび上がってきますね。
 復興に不可欠なコンクリート。深川にあった浅野セメント工場は「もうもうたる黄塵、粉まみれの大煙突・・・セメント城、「鉱毒騒ぎ起るはずだが、そのまた深川側にはなくてはならぬ偉観である。」と描写。清洲橋は架橋中で、橋台、橋杭、足場組み。永代橋は鋼鉄橋の王でした。
  水上生活者の罷業 
 「給水船が来る。水上警察のモータボートが来る。不潔、不潔、芥埃だ、泥だ、重油だ、煤だ。」隅田川の汚れの描写です。八月には水上生活者一同が罷業騒ぎを起こしました。陸上に家を持てないで船で生活をする水上生活者。「土竈(どがま)が見える。釜が見える、鍋が・・・汚水で茶碗を洗った。・・コレラ、赤痢、腸チフス、マラリヤ。」子供だけでも十万八千人もいました。東京市は一九三〇年八月には月島に水上尋常小学校を設立しています。
 「人間疎外」の大資本主義の時代
 「よいとまけ、えんやさのどっこいさ。」の時代は過ぎ去っていきました。「三菱だ、三井だ。大資本主義だ。・・・鉄、鉄、鉄、機械獣、時に機械神としての風格を彼らは高く顕現する。『ふん、人間ども。』鼠(ねずみ)、鼠、鼠、鼠、二十日鼠の人間。頭でっかちの人間。何を駆使する脳髄だ。あべこべに使役され、こづきまわされる人間機械。じん、じん、じん、じん、じん、きょん、きょん、きょん、きょん。
 白秋は関東大震災後の大川(隅田川)を下る船中で、人間の労働が汗にまみれた「よいとまけ」の時代から、「機械に使われる“大資本主義”の時代」に移り変わっていくことを感じ取ったのでした。
*注:関東大震災後の復興工事で隅田川にかかる橋は一つひとつが独立したデザインで頑丈な鉄筋コンクリートや鉄橋に架け替えられ、あるいは駒形橋のように新たに架けられた。 
         【参考】「大東京繁盛記」講談社文芸文庫・二〇一三年