下町労働運動史 42 戦前の下町労働運動史その5

下町ユニオンニュース 2014年12月号より
                                         小畑精武
佐多稲子のキャラメル工場
文学のなかの労働 もう一つの「女工哀史」
 下町文学といえば明治時代に台東区竜泉に住んで当時の女性を描いた作家樋口一葉を思い浮べます。
今回は、向島に住み、秋葉原のキャラメル工場に通った作家佐多稲子が自らの体験を綴った処女作「キャラメル工場」(一九二八年)に描かれた労働と生活です。細井和喜蔵が描いた紡績工場のルポ「女工哀史」に対し「もう一つの女工哀史」といえるでしょう。
佐多稲子は一九〇四年長崎で生まれ、十一歳の時東京へ移ります。住まいは向島小梅町、学校は牛島小学校(現小梅小)でした。家は貧しく、小学校を卒業することができませんでした。上京後間もなく秋葉原の和泉橋にあるキャラメル工場に一年ほど勤めます。その体験を短編小説にまとめました。市電に乗り吾妻橋を渡って工場に通い、電車賃がないときには祖母と歩いて通いました。電車賃は高く、日給は安く「電車賃を使っては間しゃくに合わない」のですが、彼女の父親はそんなことは考えません。女工たちはみんな徒歩で通える所に働き口を探すか、大工場の寮に入っていた時代です。

佐多稲子
遅刻がない工場
工場には「遅刻」がありません。なぜなら、工場の門限は午前七時と決まっていて、七時ピッタリに門は閉じられて入れないからです。「遅刻」の日は一日中仕事にありつけないのでした。
 一カ月たってもなかなか仕事に慣れません。工場の仕事はキャラメルを袋に包む仕事です。二〇人ほどの娘たちが二列にならんだ台に向かいあわせに立ち、白い上着を着てうつむきになって指先を一心に動かし、おしゃべりや流行歌を歌いながら小さな紙切れにキャラメルをのせて包む作業です。「慣れると一日五缶こしらえる。しかしひろ子(著者)は二缶半だ。」
和泉橋は現昭和通りが神田川に架かる橋です。彼女が働く仕事場は、終日陽があたらず裏が川に面していました。「窓からは空樽を積んだ舟やごみ舟等が始終のろのろとうごいているどぶ臭い川」でした。
 日給制から出来高制へ
日給制から一缶七銭の出来高制に移行。「仕事に慣れた娘たちにとっては収入が多くなった。しかしおおかたの娘たちは、今日までの日給と同じ賃金を取るためにはもっともっとその身体をいためつけねばならなかった。・・・いっせいに収入が減った。ひろ子(著者)などは三分の一値下げされた。そして成績表が貼りだされた。」今の成果主義と似ていますね。
 この話を家に帰って祖母に話します。祖母は裸電球の下で帽子づくりの内職をしています。父親は「毎日電車賃を引けや残りゃしないじゃないか」と転職を勧め、まもなく口入屋(仕事をあっ旋する人)に連れられて中華そば屋へ行きます。
 電車賃はこの小説の舞台の頃(一九一六年頃)は片道五銭(早朝割引あり)です。ひろ子の一日の出来高は二缶半なので一七・五銭しかなく、電車代に一〇銭取られるとわずか七・五銭しか残りません。当時の日雇いの日給が一九一七年で七〇銭でしたから、当時の女工の賃金がいかに安く、電車賃が高かったかがわかります。
 佐多稲子自身、その後も上野池之端清凌亭の小間使い、向島のメリヤス工場の住みこみ、再び清凌亭の座敷女中、一九二一年には新聞広告の求人に応募し日本橋・丸善の洋品部。関東大震災で二年ほど向島をはなれますが、ほとんど向島暮しでした。それだけに下町への想いは深かったといえます。
 【参考】「日本文学全集佐多稲子集」集英社・一九六七年
 「値段の明治大正昭和風俗史(上・下)」朝日文庫・一九八七年