下町労働史 99
下町ユニオンニュース 2020年4月号より
小 畑 精 武
東京大空襲の下で働き続けた
江東区森下に住み、交換手として電話局に勤めていたTさんは高等小学校卒業後電話局に入局。電話はどうしてつながるのか、原理を習い、その時の日給が七〇銭、少したって一円に。賞与は年四回、養成所を終わって一〇月に五円もらいました。
勤務体制は、日勤―日勤―遅番―泊明け―休み(または勤務)で、泊りは座敷の仮眠室だが南京虫が出て寝られなかった。夜食はおにぎり二個、休憩時間は百人一首を覚えたり、文芸雑誌を読んだり、文学全集を読んだりしたそうです。電話交換の仕事は一日二四時間休みなしです。夜中の東京大空襲の時間帯にも仕事は続いていました。
職場を死守した電話交換手と慰霊碑
墨田区本所の旧墨田電話局に一九四五年(昭和二〇年)三月一〇日の東京大空襲で亡くなった電話交換手の慰霊碑があります。当日の大空襲で当夜の勤務者四〇人のうち、死者は三二人、内女性は二九人に達しました。ほぼ全滅です。女性たちは電話交換手として爆撃のなか必死に交換台にしがみつきブレスレット(首から胸にぶら下げる形のマイク)を放しませんでした。かろうじて生き延びたSさんは男性の技手補で当時の様子を「空襲が始まっても逃げ出せません。職場を死守しろとの命令だったからです。」大空襲の夜は交換手の手を引いて火の海に飛び出し朝方局に戻り九死に一生を得ます。
墨田電話局の慰霊碑 1958年3月10日建立
逃げ出した交換手たちは石炭置き場の所で湯呑ぐらいのマルコゲの炭団(たどん)となっていたと振り返っています。
三月一〇日の午前零時八分第一弾が木場二丁目に落とされ、約二時間半にわたった東京大空襲は下町一帯に大きな被害をもたらしました。アメリカ軍爆撃機B29三三〇機による焼夷弾爆撃により墨田(本所、向島)、江東(深川、城東)はほぼ全滅し、百万人が家を失い、十万人が亡くなったのです。
勤労動員された女性たち
一九三八年、国家総動員法が公布され戦争一色の生活になっていきます。下町の工場は軍需工場へと変質していきます。江東区の石川島造船、日立製作所、大島製鋼などこれまでも争議を経験した工場も、一九四四年で物資動員計画により軍需工場に指定されていきました。東洋モスリン、富士瓦斯紡績などは「不要不急」とされ、軍需物資の生産へ変えられていきました。
一九四一年には国民勤労報国協力令が出され、一四才~二五才の未婚女性が勤労奉仕を義務付けられます。後に女子挺身隊となり、女性たちは軍需工場へ強制徴用されていきました。
廃止されていた女性の深夜労働も復活し、男の代わりの労働力として男と同じ仕事をさせられました。藤倉電線に行ったAさんは夜一一時まで働かされ、貯金局で働いていたBさんは男ばかりの大島製鋼で忙しく働き、Cさんは地下鉄の仕事をさせられ男が戦争に行った地下鉄の職場で男がしてきた改札、出札も何でもやりました。
石川島造船の徴用工と洲崎
一九三七年(昭和一二年)七月に洲崎三業組合の女性たちが国防婦人会を結成。一九四三年には、軍の司令で楼主全員が洲崎警察に集められ、船舶増産の必要が必至で、石川島造船に多数の徴用工が配置されるために工員用宿舎提供の要請がされました。
楼主たちはただちに要請を受けいれます。そして、一〇月末までに妓楼を工員宿舎として石川島造船に引き渡します。洲崎の楼主や娼妓たちは立川、茂原、竜ケ崎などに移っていきました。四二年には小笠原の父島にも慰安婦を出しています。洲崎の業者は洲崎で営業ができないとみるや軍と結びついたのです。
豊洲の石川島造船所には数千を超える朝鮮人徴用工が働いていました。さらに東京大空襲の夜、空襲の七時間ほど前に一五才前後の青少年二百数十名が石川島造船の洲崎宿舎に到着。簡単な夕食を取った後「死の夜」となるとも知らずに異国での眠りにつきます。生き残ったのはわずか四名。洲崎の徴用工宿舎はすべて灰燼に帰したのです。
【参考】
「江東に生きた女たち‐水彩のまちの近代」/一九九九、江東区、江東区女性史編集委員会
「東京大空襲」早乙女勝元、一九七一、岩波新書