下町労働史 81
下町ユニオンニュース 2018年6月号より
小畑精武
戦前の下町労働史 その四三
東京印刷争議と出版工クラブ
和工会は親睦団体ですが、印刷工の失業者に対し「職業あっせん」を行い、「失業者の十字軍」を称し低賃金で労働者を紹介する「働きましょう会」と対抗関係に入ります。同時に和工会は企業整備の首切り解雇や請負単価の引き上げの支援、共闘の組織化など労働組合機能もはたしていました。しかし、会のメンバーは八〇人ほどに留まり会員を圧倒的に増やすことが課題でした。印刷関係の労働者がもっと入れるように欧文工、オフセット工など全職種に拡大すること、街頭分子ではなく職場を中心に組織することなどを新たな課題としました。
柴田はイタリアの労働者クラブを参考に「出版工クラブ」の構想を三六年に具体化していきます。労働者が地域ごとにクラブを持ち、夜仕事が終わるとそのクラブに集まり、お茶やワインを飲んだり、音楽を聞いたりして一日の疲れをいやす。その中でお互いの親睦を強める、というものです。
二・二六事件が起きた一九三六年の秋から暮れ和工会から出版工クラブへ転換する活動がすすめられます。
そのためにまず和工会が動員できる労働者の数をつかむため、市川国府台で秋の運動会(写真)を開き、一五〇名の労働者が集まりました。
出版工クラブの発足
錦糸町にあった柴田の家は和工会の活動とともに出版工クラブの活動が行われ、三七年二月に新年会を兼ねて二〇〇名が西神田亭に集まって発会式が行われます。クラブ員のかくし芸、歌謡曲、落語、演劇などが行われました。
柴田は活動家たちにアピールします。
「僕らはいままで『働きましょう会』と対抗することだけをやってきた。これからはそれだけではだめだ。もっと広い範囲の人を組織化しなければならない。大きい工場には労働組合がある。ここでは労働者の力で自分たちの生活を高めることができる。しかし中小零細企業に働く労働者には生活を守る組織ももてない。僕らの当面の目標は・・中小零細企業の労働者をどのようにして組織化してゆくかが大切なのだ。そのためにはむずかしいことはいわないで友だちをつくれ、広い範囲の友だちをつくらないとだめだ・・職場にゆけば純粋で正義心を持った若い人がたくさんいるんだ。この人たちをつかむことが大切なんだ。」と。
出版クラブの活動
出版工クラブは、毎月一回会合を開きました。そこで国内、国際情勢を説明するとともに、購買部、職業紹介部の活動から俳句、将棋、観劇、登山、ハイキングなど多様な活動を展開します。「クラブニュース」一〇〇〇部の印刷は会員が働く会社の経営者が安くやってくれました。
神田支部の分裂
一九三五年はコミンテルン(共産党などの国際団体)第七回大会が開かれ、これまでのセクト的方針が大きく転換され、幅広い反ファッショ統一戦線戦術が提起された年でした。これをめぐって、出版工クラブの中で本部と神田支部の意見が割れます。
神田支部は他の印刷工組合からの「一緒になる」呼びかけに賛成し、労働組合化をはからない「出版工クラブは甘っちょろい」、日和見主義だと本部を批判しました。本部の柴田は「現在のように弾圧のひどいなかでは『出版工クラブ』はあくまでも親睦会というゆるい組織形態にして広範な職場にくい込み大衆をつかむことこそ大切なのだ」と反論します。こうして神田支部は分裂し、「全日本出版労働者協会」が結成されます。しかし、この組織は柴田が心配したように、産業報国会への圧力が強まる中、短命に終わりました。
「出版工クラブ」は日中戦争が始まり拡大するなか、一五〇〇人に会員を組織拡大し、権力に狙われていきます。 (続く)
強調文【参考】「戦時中印刷労働者の闘いの記録・出版工クラブ」(杉浦正男編、一九六四)