下町労働史 80

下町ユニオンニュース 2018年5月より
戦前の下町労働史 その42   小 畑 精 武
東京印刷争議と出版工クラブ・上
一九三一年の満州事変以降、軍需インフレと為替安により輸出が増加して、好況局面が訪れました。しかし、三五年には停滞局面に入り、労働者数の増加率が停滞、臨時工が増加、物価は上がるのに賃金は低落していきます。印刷産業の臨時工は長期間ではなく、ある工場に三日、あるいは一週間、長くても一か月で、半失業状態でした。
そうしたなかで、植字工で臨時工の柴田隆一郎は印刷会社に勤めながら、印刷労働者の組織づくりを着々とすすめていきます。柴田は全協(左派)の組合員でした。彼は同じ立石に住む労働者を仲間として雑誌作りを始めます。「雑誌が組織者」になっていきました。詩、俳句や川柳が掲載され、印刷、製本など同業の労働者が雑誌作りを担っていきます。雑誌作りは同時に「未組織印刷労働者の組織化」でした。柴田たちは当時の印刷会社では五指に入る深川の東京印刷に臨時工でしたが就職することができました。
 突然の解雇、減給
一九三五年に入ると軍需産業のインフレが停滞期に入り、多くの産業で物価は上がるが賃金は上がらない状況が生まれます。

(写真 柴田隆一郎)
東京印刷には全労系関東出版労働組合(委員長河野蜜)があり賃上げ要求をしたのに対して、三月一四日に会社は突如解雇一二人、減給七四人、他方一一三人には昇給を通告してきました。二百二十余人が加入する組合は「組合を破壊する攻撃」と位置づけ、解雇者による争議団を結成。他の組合員は出勤して解雇撤回、減給反対方針を決めます。
二一日からは組合加入もストにはいりました。会社はロックアウトをかけるとともに非組合員一六〇人の他にスト破りの臨時工(スキャップ)や組合切り崩しのための暴力団を雇いました。
組合は、深川石島町の貸席に闘争本部を置き、社長宅へのビラ貼り、支援団体への行商と宣伝、スキャップへのピケットなど展開しました。
 
  傷害致死事件で争議は敗北へ
 柴田は表面には出ないで、毎晩の対策会議、「何をなすべきか」(レーニン)の学習をすすめ青年たちを育てる活動に重点をおきました。
 争議は五六日間に及ぶ長期闘争になります。その間柴田は外部に対しても争議支援を働きかけ、印刷関連三五社からカンパを得ることに成功しました。警視庁は満州国皇帝が日本に来る前に争議を終わらせるために、東京モスリン金町工場争議でやったように、調停に入ってきました。しかし、会社は譲歩せず調停は不調となり決裂し争議は続きます。
 組合はスキャップ対策として「説得」とともに重傷を負わせない範囲で処置する「実力行使」を指示。そのなかでスキャップの一人が背負い投げを受けて死亡する事件が起こります。これにより、組合から多数の検挙者(柴田も含む)がでて、一挙に争議はつぶされ、七〇人復職、一〇人臨時工採用という警視庁労働・調停両課のあっ旋を受けざるを得なくなりました。争議は敗北に終わりました。
  戦争に抵抗する和工会
 柴田の周辺には多くの青年が結集してきましたが、一五〇人が失業し路頭に迷うことになります。柴田は、青年たちを組織化すること、失業した労働者の職場をみつけることを目標にした大衆組織として「和工会」を二六人で結成します。この和工会がこの後戦時体制下するなかで抵抗する印刷労働者の核になっていきます。      (続く)
【参考】「日本労働組合物語・昭和」(大河内一男、松尾洋、一九六五)
「戦時中印刷労働者の闘いの記録・出版工クラブ」(杉浦正男編、一九六四)