下町労働運動史 79
下町ユニオンニュース 2018年4月号より
戦前の下町労働運動史 その四一 小畑精武
東京モスリン亀戸・金町の闘い・下
亀戸工場は警察主導「円満解決」へ
一触即発の状況が亀戸工場で生まれました。不思議なことに、吾嬬警察が積極的に動きだし、「労資無用な闘争」を避けるために労資代表を吾嬬署に招いてあっ旋をすすめます。三四年六月一八日夜中の午後十一時に①希望退職の件を除き撤回、②希望退職は強制しない、③組合は大会決議を撤回、の条件で覚書を締結し、解決しました。「(検挙など)警察事故なく」「円満解決」です。三四年はこうした柔軟な警察の態度が目立ちます。
金町工場の争議
戦前の葛飾、江戸川は田んぼが広がる農村地帯でした。しかし、本所、深川から工場が移転したり、新工場が建設されたり、中小企業が新たに起業したり、徐々に工場が増えていきました。東京モスリンは亀戸地区に二工場あり、静岡県沼津にも工場がありました。葛飾金町工場は常磐線金町駅前の北側で、現在はその工場跡にUR団地ができています。
二八年にも争議を体験、三四年当時は七〇〇人が工員向上会という企業内組合に組織されていました。会社は組合裏切り者の買収、組合基金の乱費、まじめな組合員の解雇など向上会つぶしを進めます。組合は臨時大会を三四年十一月に開いて、企業内組合から脱皮し全員総同盟に加盟して紡織労働組合金町支部発足を決定。葛飾警察署の仲介で「組合加入の自由」を認めさせました。
当時の職場状況を女工の一人は総同盟機関誌「労働」に寄稿してます。「『今こそ私達は目覚めた』無自覚な私は何も考えずにただ働かされてきました。ところが会社は修養団を作って、工場全員に講習せしめ、同胞相愛・同胞相愛と唄わせ、便所、風呂、洗面所等の掃除までさせるのでした。工場で一生懸命労働してきた身体を休む暇もなく働かせるのでした。・・・労働賃金は下げられるばかりですが、それでも修養団は辛抱が第一だと教えます。私たちは日夜、休む暇もなく考えさせられました。そして、結局労働者は労働者同士が腕を組み合わさなければならぬことを知りました。」
籠城ストライキへ
会社は組合を認めたにもかかわらず、翌日から修養団の前衛、報国同盟を導入します。こうした会社からの攻撃に対して修養団のビラまきを止めた組合員を会社は解雇。警視庁は松岡駒吉総同盟会長を招いて円満解決をはかりますが、会社が拒否。
組合は三五年二月十七日金町労働会館で従業員大会を開き、そこに籠城してストライキに入ることを決定します。当時の組合員は約七〇〇人、五〇〇人が女性でした。組合は総同盟労組がある吾嬬工場、沼津工場(亀戸工場の組合は全労)に同情ストを要請。吾嬬町の総同盟事務所に組合は六〇人を派遣しています。会社は、総同盟を工場から排除し女工を修養団に組織する方針で四八人を解雇します。
満州国皇帝来訪で解決へ
三五年二月に始まった争議は長期化していきます。四月には満州国皇帝溥儀が日本を来訪する予定。治安を憂慮する警視庁はあっ旋を試みました。その結果、三月三〇日に同庁調停課の立会いで労使が会見。四月七日には徹夜交渉の結果午前六時半に警視庁解決案が出され解決に至ります。
① 金町工場従業員は、その自由意思により現に工場内に存する団体に加盟しもしくは脱退の自由を有する、②会社は、さきに発表せる解雇者中男八名、女十名の復職を認め、従業員側は三十名の解雇を承認する、③既定の退職金の他に特別手当を支給する、④争議解決金を支給する、など六項目の覚書を結んで解決しました。
【参考】●「日本労働組合物語・昭和」(大河内一男、松尾洋、一九六五)●日本労働総同盟機関誌「労働」●警視庁争議報告