下町労働運動史 78
下町ユニオンニュース 2018年3月号より
戦前の下町労働運動史 その40 小畑精武
東京モスリン亀戸、金町の闘い・上
東京モスリンは一八九六年に東京モスリン紡織株式会社として設立された日本最初の毛織会社です。山内みなの自伝(本誌⒒⒓号)や細井喜久蔵の「女工哀史」(一九二五年)にその厳しい労働実態が明らかにされています。この年綿糸輸出量が輸入量を上回り、日本は繊維産業大国の道を歩み始めます。
東京モスリン亀戸工場(現文花団地)では一九〇九年に最初の争議が起っています。山内みなが最初に参加したストは一四年。この年第一次世界大戦が始まり、日本の綿布輸出が輸入を上回ります。その後も、二六年、二七年(亀戸工場)、二八年(金町工場)、二九年(吾嬬工場)と恐慌の時代には毎年争議が発生しました。さらに、東洋モスリンの大争議が三〇年に闘われ、三一年には日本の中国(満州)への侵略が本格化。三二年には日本の綿業は最盛期を迎え、三三年には日本の綿織物の輸出が世界一になりました。
当時東京モスリンは、亀戸工場一〇六九名(男二五四、女八一五名)、吾嬬工場(墨田区)一六八七名(男二七九名、女一四〇八名)、金町工場(葛飾区)八二一名(男一六六名、女六三〇名)、沼津工場八一〇名(男一八〇名、女六三〇名)と八割が女性でした。
東京モスリン亀戸工場
会社は業績不振を理由に三二年以降、昇給停止を行い従業員もそれを受け入れます。しかし低賃金の女性、青年労働者や家族持ちの労働者はたびたびの操業短縮による減収で生活が厳しく、定期昇給を求める声をあげます。金町工場を除く亀戸、吾嬬、沼津工場で全員の「定期昇給五銭」を要求することになり、定期昇給獲得実行委員会を三四年五月十八日に結成、社内組織工友会長はじめ交渉の代表者を選出します。亀戸工場には「全労紡織亀戸支部」、吾嬬工場には全労と総同盟の組合が組織され、両工場とも東京モスリン労働組合連盟に加入、全国労働組合同盟も支援を決定しました。
賃上げ求め女性・青年が奮闘
会社は昇給案(男子二銭、女子平均一銭三厘、最高三銭~最低一銭)を提示。これに対し低賃金の女性と青年は闘争心に燃えたものの、吾嬬、沼津など他の工場は会社案を受け入れます。高給者は闘争後の犠牲を恐れ消極的となり、女性・青年労働者を収める方向に向かいます。工場間の共闘も職場労働者の連帯も崩れたのです。会社は、従業員がサボタージュやストに入れば解雇も辞さずと強行姿勢を示し、ついに亀戸工場の労働者は会社案をのむことになりました。
交渉委員は総辞職しましたが、解雇者を出すことなく、二一日間の闘争に終止符が打たれ吾嬬警察署は「警察事故無く円満解決した」と警視庁に報告しています。
「整理解雇」 会社の追い討ち
定昇問題解決後一カ月もたたない六月一五日、会社は事業不振を打開するためにと、高給者と出勤率・作業能率が低下している女工一〇〇人ほどを整理解雇しようとする人員削減「合理化」をかけてきました。
応募者には、①退職金に上乗せ一割~一割五分の割増手当支給、②特別手当日給の六〇日分支給、③応募者がいない場合には指名解雇、④病気欠勤一か月以上は解雇などの条件を提示。これに対して、女工達は上部団体である全国労働組合同盟に直ちに連絡を取り、その日のうちに女工大会を開いて会社に整理案の撤回を申し入れます。会社は一蹴!
一〇〇〇人の従業員大会を午後二時から開催。その間機械の運転が止まり、工場長の説明には投石者が出る始末。説明に納得しない労働者は従業員大会に移り、「整理解雇絶対反対、工場長排斥、犠牲者絶対反対、問題への経費全額会社負担」の四項目を提出、ストも辞さない姿勢を示しました。会社は「至急本社と打ち合わせのうえ回答する」と述べ散会となりました。(続く)
【参考】警視庁争議報告