下町労働運動史 77

下町ユニオンニュース 2018年2月号より
戦前の下町労働史 その三九   小畑精武
  日本主義労働運動 (下)
  「労資融合・産業報国」
 神野は、最初は評議会関東金属労組(左派系)の造機船工労働組合に加入していました。会社からスイスに技術派遣された時、「支那人と犬は入るべからず」と立ち寄った上海の公園入口に書かれているのを見て仰天。「世界の労働者は団結せよ」と叫んできた欧米に対して不信感を抱き始めます。インドではイギリスから何百年も圧迫を受けている悲惨な状態を見て涙し、社会主義を捨てます。そして「世界の正義、人道も国家なくしてありうるものではない」と欧米に対する国家の自立を身にしみて感じます。さらに「日本は、日本の国を護るだけではいけない。東洋人種、いわゆるアジア民族のために、国境を固く締まらなければならない」と使命を悟り、社会主義から国家主義へ転じていきました。
 スイスでみた労働組合主義
 スイスでは当時の日本の争議とは全く違い、整然とした六千人のストライキにびっくりします。スト予告は開始三日間以前、職場占拠のないスト、ストに備えた機械への油注入、組合幹部への絶対服従、交渉団への法律経済の専門家参加、会社帳簿の調査など、百年前の(今でも?)日本では考えられないストのあり方、団交結果として賃金の一割カットの承認・スト解決にもビックリしました。
 日本主義労働運動を広げる
 神野は帰国後、労働組合(評議会)と別れ、明治天皇の死に殉じた乃木将軍夫妻の日本家族主義と親分・子分の精神を評価するに至り、自己修養の場として乃木講を設立。乃木講で教育勅語を読み日本主義労働運動の核づくりを進め、広めていきます。そこから「悪い労働組合があればその半面には良い労働組合がなければならぬ」と自彊組合結成の意義を強調しました。
神野は安岡正篤が設立した右翼思想団体の金鶏学院に入り、「目前の実行、日常生活の闘争を主旨とせず、精神教化の結果が日本改造の原動力となることを期して、その指導者の育成に努め」、『労使融合』『産業立国』をスローガンとする日本主義労働運動を提唱し広めていきました。
  購買組合、病院を設立
 自彊組合は独自に購買組合(消費組合)を組織したこと、さらに「労働者及び家族の診療所」として病院を経営したことも見逃せません。この病院には大学関係の医者が無料で協力。こうした組合を内務省は「日本一」と評価します。消費組合は純労働者組合を組織し亀戸事件で虐殺された平沢計七が二一年一〇月に共働社という消費組合を組織していました。診療所は賛育会や馬島僩(ゆたか)が関東大震災直後本所松倉町につくった労働者診療所などが設立されていました。
自彊組合病院
自彊組合が設立した病院(「自彊」=自ら勉めて励むこと)
 結局は産業報国会へ
 一九二九年に自彊組合は企業別労組である横浜船渠(造船所)、浦賀船渠と武相労働連盟に参加、三〇年には一万四千人の日本造船労働連盟と改称、勢力拡大をはかっていきます。三三年にはメーデーが分裂し右派は「愛国労働祭」を開催、三一年には一三二か所四六、八六八人参加だったメーデーは三三年第一四回メーデーでは全国六六か所、二七、六三九人に激減していきました。
 神野信一は三三年九月に死去。その後自彊組合は三五年一〇月に愛国労働団体の全国的統一をすすめます。三八年七月に石川島自彊組合は解散し、全国初の事業所“産業報国会”を設立することになります。
【参考】「日本労働組合物語 昭和」(大河内一男、松尾 洋、筑摩書房、一九六九)
「昭和の恐慌」(「昭和の歴史2」中村正則、小学館、一九八二)「神野信一講演集」(社会運動往来社、一九三二)