下町労働運動史 70

下町ユニオンニュース 2017年6月号より
小畑精武
戦前の下町労働史 その三二
東京電燈の組合再組織化(下)

 一九二七年十一月十一日に再結成された東京電燈従業員組合は、二八年三月に東京電力との合併にともなう「人員整理、配転」に対し嘆願書を提出しました。
「現実主義」を基盤に「待遇改善」と「組織拡大と充実」を目標とする要求です。
① 従業員の身分保証(a解雇は絶対にしない、b不当配転はしない)
② 労働条件改善(公傷および忌引きによる欠勤は賞与に影響させない、b現在の公休のほかに一年に連続七日間の特別休暇を、c定期昇給率の引き上げ)
③ 福利厚生制度の改善(a春秋に慰安会の開催、b会社の共済会の設置)
 これらに対して経営側は「合併後に解雇は絶対にしない、生活に重大な影響を及ぼす転勤は行わない、賞与問題も改善、特別休暇は五日支給、定昇率を引き上げる」などを回答し、従組は九割近い要求を実現しました。
さらに、無辞令者六か月以上には即時辞令を交付する、診療所増設、東電病院充実なども実現していきます。これらの成果はすべての従業員に適用され、従組の圧倒的な未組織労働者に対する影響力は高まり組合は発展拡大していきました。
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 しかし、これらの成果は、従組の力によると同時に会社の労務政策にもよるものでした。二八年前半にはまだ左派の関東電気労組が大きな影響力を持ち、会社は関電労にはムチで臨み従組にはアメで臨んだのです。そして二八年四月には労務課を創設します。
 関電労は「階級的」電気産業労組として東京電力(東京電燈とは別)の解散手当争議に取組み、一時は組合員は二~三〇〇人に達しました。しかし、二八年三月の共産党弾圧で西村委員長ら六人が逮捕され、弱体化していきます。また工友会という右派少数組合が外部の指導者によって作られます。従組は徹底的に「現実主義」から企業内にこだわり組合員を増やしていきました。
 外部指導を拒む
 従組はスローガンに「社外者幹部の排撃!左右の固定化反対!経済闘争第一主義!」を掲げ、着実に未組織労働者の中に根を張っていきます。関電労から「従組は会社から六〇〇円をもらっている」とのビラもまかれました。しかし従組は二七年十一月の創立大会資金七三〇円を下町第一支部二五〇円、江東支部三〇円、江東第二支部四〇円などからの借入金でまかなったのです。
 従組のリーダー佐良土英彦は著書「東電組合運動史」(一九三四)のなかで「関電労は左翼、工友会は右翼ということで未組織大衆は組合加入を躊躇(ちゅうちょ)しているのではない。外部からの指導により組合員の意識水準と無関係に本部指令が発せられた。外部者が牛耳っている組合では『ウッカリ』加入できない。」という意識状況に未組織従業員はあったととらえていたのです。
一会社一組合主義の実現
 二八年三月の東京電力との合併問題では、東力の解散手当問題で関電労は争議状態になりました。従組は争議支援を決め「応援」し、合併前日に解決しました。定年制反対でも共同して抗議しています。
二八年五月メーデーに三〇〇人がはじめて参加。三〇日には第一回定期組合大会が二二支部の代議員によって開かれ、城東3支部、江東3支部、千住2支部、下町2支部と下町は半数に迫る大きな勢力でした。
 二八年七月には関電労は下請労働者六人の解雇争議を闘い、「帝都暗黒化計画」をでっち上げられ、西村委員長はじめ幹部、活動家が逮捕(以後6年間服役)。たった二分で関電労大会は解散を命じられたのです。
 こうして東電従組は社内唯一の組合となり「一会社一組合」が実現します。闘いは続きますが、改めて取り上げたいと思います。
【参考】佐良土英彦「東電組合運動史」一九三四(非売品)河西宏祐「戦前期東京電灯従業員組合の軌跡(一九二五年~一九四〇年)」