下町労働運動史62
下町ユニオンニュース 2016年10月号より
戦前の下町労働史 その二五 小 畑 精 武
「華やかな女性の憤慨」
松竹レビューガールの不満爆発
「あたし達の部屋は南京虫としらみと、のみの巣だヮ」「鮭と沢あんばっかりの弁当じゃ栄養カロリーが不足だヮ」「月給と舞台手当を合わせてもおしろい代はおろか電車賃にだって足りないのよ」一九三三年六月、華やかな舞台でレビューを踊る若い女性たちが待遇の悪さに不満の声をあげました。
松竹座は浅草国際劇場があった所、今は浅草ビューホテルになっています。(太平洋戦争中には風船爆弾の製造工場となり、東京大空襲時に爆弾が投下され、戦後解体時にはグニヤと曲がった鉄骨が屋根裏に残っていました。「再び許すな東京大空襲!下町反戦平和の集い実行委員会」は被爆鉄骨の保存を求め、現在両国の江戸東京博物館に展示されている)
決起した争議団委員長は「男装の麗人」といわれた水ノ江瀧子。(戦後NHKテレビでジャスチャーの番組に出ていたのを覚えています。)
ことの発端は、松竹座の音楽部員(楽士)三〇名が「不当解雇反対」「減給反対」の争議に入り交渉中に、自分達もと立ち上がったのです。
トイレ改善、定期昇給を嘆願
水ノ江瀧子、吉川、小倉のスター以外にも当時の踊り子二三〇人(歌劇部)が参加。二つしかないトイレや低賃金に対し、「退職金の支給」「定期昇給の実施」「最低賃金制の制定」「衛生設備・休憩室の改造」「公休日・月給日の制定」などの要求を嘆願書にまとめて音楽部員と共に六月一四日に松竹本社に提出しました。
この頃、関東大震災の後に「エログロナンセンス」の時代が到来し、女性の足を見せるレビューの人気が高まっていました。しかし、水の江、吉川、小倉のようなスターでさえ、月給八〇円から一〇〇円、一般の踊り子(女生徒、レビューガール)はわずか一〇円~二〇円程度でした。研究生になっても半年は無給だったのです。当時の巡査の初任給は四五円でしたからお話にならない低賃金!
しかし、会社は一部を認めたものの音楽部と歌劇団との分断をはかり、一六日からはロックアウトに。これに対して争議団はストライキで対抗しました。
スターが先頭に立った争議への支援は全国に広がります。争議団の演説会にはファンが大挙押しかけ、資金カンパや激励の手紙もあいつぎ、歌劇団の父兄会、後援会、同時期の東洋モスリンと同じ全国労働組合同盟系の労組も支援しました。
松竹は水の江瀧子を解雇
争議は長期化し、松竹は水の江を含む数人を解雇しました。さらに、歌劇部を解散して会社直属の少女歌劇団の設立をはかり、歌劇団の切り崩しをはかります。水の江たちは七月一日から湯河原温泉に貸別荘を借りて立てこもり。ここにもファンがお菓子やうどんを差し入れに。これまで休暇が取れなかったのでピクニック気分を楽しみました。
全員の職場復帰を勝ちとる
しかし、水の江は女優の原泉(作家中野重治の妻)とともに七月一二日に思想犯として特高に検挙され警察署に留置されます。ここでも水の江は抵抗し、一日で釈放。会社との交渉が再開し一六日には覚書が交わされます。しかし、会社は水の江含む一〇数人を謹慎処分にしました。
この間に、水の江は日比谷公会堂でワンマンショーを開き多数の観客が押し寄せます。他方、松竹の新生歌劇団は不振が続きます。会社は水の江を戻すしかなくなり、水の江は残った八人全員を戻すならば、との条件を付けて復帰を勝ちとりました。
同じ頃、無声映画から音が出る映画に時代が変わり、解雇された活動弁士の争議が一九三二年四月に浅草で起きます。無声映画の時代が終わり、弁士の解雇が続いたのです。
【参考】「朝日新聞一〇〇年の記事にみる③
東京百歳」(朝日新聞社、一九九八)
「SMAP解散騒動を労働問題で考える。83年前の“アイドル”たちの闘いに学ぶこと」(近藤正高)
http://top.tsite.jp/news/anime/o/27338597/