下町労働運動史 61

下町ユニオンニュース 2016年8月9月合併号より

戦前の下町労働史 その二四
 
小畑精武
玉の井の“女性労働”
関東大震災で浅草から移転
 「玉ノ井」という駅が一九八八年まで東武線にありました。今は東向島。古い蒸気機関車や日光特急電車を展示している東武博物館があります。
 玉の井は関東大震災で被災した浅草の銘酒屋が移ってきた地域で、東京大空襲でも大きな被害を受けました。永井荷風の有名な小説「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」(一九三七年)の舞台となった私娼窟玉の井は「抜けられます」と書かれた陋巷(ろうこう)迷路(めいろ)の街、荷風は執筆のためか、連日のように通っています。
玉の井が栄えたのは関東大震災後から売春防止法が完全施行された一九五八年までのわずか三〇余年でした。売春防止法によって街はがらりと変わり、今はその面影はほとんどありません。
ここには主に東北の貧しい農家出身の女性たちが前借金で売られ、連れてこられました。あるいは、女工として東京に就職した後に企業閉鎖解雇となって来た例もありました。一九三五年の警視庁調査では総数九一七人(二~三〇〇〇人いたともいわれている)のうち、東北出身は四〇四人(四四%)を占めています。
玉の井写真
 住込みで休日が取れない
迷路となった狭い道に娼家は並び、三〇㎝四方の小窓から「ちょっと、ちょっと、お兄さん」「ねえ、ちょっと、旦那」「ちょっとここまで来てよ、お話があるの」と言ってお客さんを店に引き込んでいったそうです。客室は二階に三部屋ほどあり、間取りは三畳に四畳半か六畳程度でした。
小窓に座る女性は各娼家二人の規約がありました。しかし、実際には守られなかったようです。時間はショートタイム(ちょんの間)が一五分程度、ロング(時間)、泊まりの三つ。多くの女性は前借があり、拘束されていました。借金を返した後でも、毎日下図の家主や地主あるいは抱え主に揚銭を払わなければなりません。休んでいても払わなければならない厳しいもので、住み込みで休日もない状態でした。
構造図
 暴利をむさぼる搾取構造
地主、家主が得る権利金は膨大で玉の井御殿を建てた者が十五、六名もいました。他方、娼婦たちは性病になる危険が高く定期的な検診がありました。半病人になっている娼婦に足袋もはかせず着物も薄物で、雇主は客を取ることを強制しました。
金銭的な対立、中間搾取、年数契約の不履行、業者と結託して着物を高く売りつけるなどの搾取に対して挑戦したのが南喜一です。南は南葛労働会、共産党の活動家で、弟吉村光治は亀戸事件で殺されました。
 「女性向上会」を設立 
南は当初地域労働者を組織するために駅前に「江東地方工場連絡委員会」事務所を設けます。しかし目の前で起こっているあまりにひどい女性たちの環境に憤ります。女性たちの救援に三二年七月、南は「女性向上会」を設立し、「玉の井戦線ニュース」を発行、一時は半数の娼婦を組織化します。話を聞くと女性たちの家にのり込んで直談判、金を渡して証文を取るやその場で破り捨てました。
解決後玉の井から抜け出させ帰郷した女性は三三年八一人、三四年一三六人いましたが、親元で働いている女性はたったの二名。女性たちは一カ月もするとまた玉の井に戻ってきたのです。他方女性向上会は銘酒屋組合に認められ、南は運動の方向を待遇改善に転換し「東北子女売買問題」を無産政党、労働組合と共同してつくります。
【参考】前田豊「玉の井という街があった」ちくま文庫、2015
     日比恆明「玉の井-色街の社会と暮らし」2010