下町労働運動史(29) 大正時代その21
下町ユニオンニュース 2013年10月号より
下町労働運動史(29)大正時代その21 東大セツルメントの建設
小畑精武
東大生の関東大震災被災者支援活動
関東大震災の報を八丈島沖で無線受信し、翌二日に芝浦に着いた東京帝国大学の学生三八人がいました。夏休みに当時日本の委任統治領であった南洋に視察に行った学生です。そのまま東大へ戻るとすでに二〇〇〇人を超える人々が構内へ避難していました。その後も救援活動を続け、大きな成果を上げ、一〇月一〇日に解散式を迎えます。
しかし、被災地の再建はそれからでした。下町現地で救援活動を始めていた賀川豊彦からの要請もあり、救援活動に参加してきた末弘厳太郎教授や学生たちはさらに現地に入っての活動=セツルメント(注)建設に着手しました。
セツルメントの建設
一九二三年一二月に第一回総会を開催、六事業を設け、教育部は労働学校の開設、調査部は地域の戸口調査、医療部は診療所開設を決めました。当初は猿江裏町(現江東区)が予定されていましたが、労働者が多い街をということで柳島元町(現墨田区、後に横川橋に町名変更)が選ばれ、翌二四年六月にセツルメントハウスが完成します。近くにはすでに東大YMCA出身者による賛育会産院が設立されていました。セツルメントには九人がレジデントとして定住し、通いの学生を含め二〇人以上が参加、末弘教授は労働法制、穂積教授は法律相談を担当しています。
(注)資本主義が生み出す貧困に対して、宗教家や学生が都市の貧困地区に自ら居住して宿泊所、託児所、教育、医療活動などの社会事業を行う活動。一九世紀にイギリスで始まった。
労働学校に九〇人の応募
戸口調査によると、大部分が農村部からの壮年労働者とその家族で、九二%がバラックに住み、一部屋のみが四七%、二室が二七%。電灯は一灯が三分の二、三四二の家族のうち窓がない家一〇〇、一つが一四六でした。
九月には労働学校が開校。「労働者階級それ自身のための教育」を本科とし九〇名以上の応募があり定員をオーバー、面接で六三人が入学ました。入学申込書(一九二九年)には、期間九月二〇日~一二月五日、月水金の午後七時~九時、授業料は月五〇銭、入学金なし、教科書不用とあり、課目には戦後労働法に尽力し中労委の会長となった末弘厳太郎教授が労働法制を担当、社会史、政治理論、組合論、労働運動史、農民問題、経済学が紹介されています。(難しいそうだね!?)
労働学校の先生は東大の学生です。その多くは新人会(注)のメンバーでした。やがて共産主義運動の拠点とみられ、圧力がかけられていきます。
(注)大正デモクラシー運動から、新しい人間たることを宣言してつくった東大生の組織。
活動家を生み出した労働学校
労働学校第一期卒業生には、故郷鳥取に帰り戦後社会党国会議員となった足鹿覚や東京合同労組の山花秀雄がいます。
山花秀雄は労働学校卒業の翌年市ヶ谷刑務所に入獄、生涯に検挙・勾留を百数十回受けたそうです。一九二九年には新労農党の中央執行委員・青年部長に選ばれ、三一年には日本労働組合評議会を結成、中央執行委員。戦後は労働組合再建をすすめ、四六年七月総同盟関東化学労働組合を結成し委員長、五二年の総評結成にも参画しました。
【参考】「だれが風を見たでしょう―ボランティアの原点・東大セツルメント物語」(宮田親平、文藝春秋、一九九五)「東京帝大新人会の記録」(石堂清倫、竪山利忠編、経済往来社、一九七六)