下町労働運動史14 大正時代6
下町ユニオンニュース 2012年5月号より
大正時代の下町労働史 その6
小畑 精武
「江東に生きた女性たち」
江東は近代女性史の典型
「何か下町労働史に関する本、資料はないかな?」と神田の古本屋を覗いていたら、「江東に生きた女性たち‐水彩のまちの近代」という背表紙が目に入りました。刊行は一九九九年、江東区の要請で江東区女性史編集委員会によってつくられた三五四ページの立派な本です。
構成は「写真でつづる江東の女性たち」「聞き書き 江東の女性たち」「江東の女性のあゆみ」からなっています。今回は大正にかかわるところを紹介したいと思います。
編集委員会は「江東区はある意味では近代女性史の典型ともいえる地域でした」と三つの特徴をあげています。
第一は『近代産業の中核である紡績業があり、そこで働く女工たちとそのたたかいがあったこと』です。これまでみてきた東京モスリンのたたかいがあり、(今後触れますが昭和になっても亀戸の東洋モスリンのたたかいがあります)山内みなたちがいました。有名な細井和喜蔵の「女工哀史」にはこの下町の紡績工場の過酷な女性労働が描かれてい
ます。連続した深夜業による体力の低下と寄宿舎での集団生活により結核に感染する女工がいました。女工の平均勤続は2年未満が六五%に達してました。女性たちを搾取する土台のうえに日本資本主義がつくられていったのです。
紡績の街 亀戸
当時の亀戸はまだ南葛飾郡に属し亀戸町でした。となりの大島町、砂町とともにやがて城東区となり、深川区と合併して江東区となります。一九二〇年(大正九年)の亀戸の人口は三八、五四八人と大島、砂町より多く、女性労働者の割合は亀戸全労働者の4割と格段に多かったのです。これは日露戦争後、東洋モスリン(亀戸七丁目)、松井モスリン(現サンストリート)、日清紡(亀戸2丁目公団団地)など三〇〇〇~四〇〇〇人規模の紡績工場が建設され、新潟、福島などから出稼ぎ女工が集められたからです。
城東電車
当時の東京市電は錦糸町まででした。亀戸には私鉄であった城東電車が一九一七年に開通し、錦糸町から現在の京葉道路を通って、東京モスリン裏から狭い道を小松川に抜けていきました。やがて女性車掌も生まれます。
東京モスリンの闘いを受けて、一九二〇年には友愛会の亀戸支部が結成され、富士紡績小名木川工場で請負単価二割値上げ要求ストが勃発。要求を貫徹しました。東京モスリンでも再びストライキが起きています。「女工哀史」の著者細井和喜蔵と同棲生活をおくった高井としをが「人間らしいものを食べて人間らしくなりたい」と演説をしました。
人権抑圧の公娼制度
第二は『近代日本において女性の人権をもっとも抑圧した公娼制度、その大規模な遊郭が存在したこと』です。
四月二日の下町春闘街頭宣伝時に宣伝カーで小高さんに遊郭があった洲崎を案内してもらいました。小さなマンションや民家が密集し昔の面影はほとんど残っていません。しかし、文字通り地名である海を埋め立てて作られた遊郭が海に囲まれていた名残の堤防が残っているのにびっくりしました。
遊郭に生きた娼妓は困窮した家のために田舎から売られてきて、前借金と年季奉公で自由がなく拘束されていたのです。娼妓を解放しようという運動の中心は洲崎でした。
第三は『江戸時代からつづく商人や職人の町であり、また農業、漁業、水上生活者、そして近代日本の植民地政策からくる在日朝鮮人たちなど、さまざまな女性の暮らしがあったことです。』
出典「江東に生きた女性たち‐水彩のまちの近代」(江東区女性史編集委員会、ドメス出版、一九九九年)