「二人の父親」
下町ユニオンニュース 2021年7月号より
私の父は、1937年生まれで2014年に76歳で亡くなりました。
夫の父は、1930年生まれで2017年に87歳で亡くなっています。
私にとって、実父、義父にあたるこの二人は、対照的な生い立ちでした。
まず、父は東京の電力会社に勤務する技師と、専業主婦である妻との間の一人息子として生まれ、溺愛して育てられました。
雪の日、小学校に登校しようとして、玄関の前で滑って転び泣いたそうです。すると母親から
「よしよし、もう今日は学校お休みしようね」
と言われて、本当に休んだそうです。
高額な家庭教師をつけてもらい、私立の中高一貫校に進学し、当然のように親の金で大学にも行きました。
義父は、長野県の農家出身です。六人兄弟の五番目に生まれました。
母親を早くに亡くし、口べらしのために末の弟と二人で親戚の家に預けられて育ったそうです。
もちろん、弟はまだ小さいので家に帰りたいと泣きます。帰ったら叱られると言うと、窓から家の中を
「見るだけでいいから!」と言う弟の手を引いて実家に行き、家族の様子を隠れて眺めました。帰る時も弟は泣くので、義父はとても困ったそうです。
1945年8月の敗戦当時、私の父は誕生日前なので7歳、義父は15歳でした。
東京都出身の父は、縁故疎開のため、親戚宅がある山梨県にいました。
父は小柄で痩せていて、東京から来たモヤシだと、地元の子どもからいじめられて辛かったそうです。
食べ物や水も身体に合わず、下痢をするたびに、お母さんがいればお腹をさすってくれるのに、お母さんに会いたい、東京に帰りたいと考えていたとの事でした。
長野県出身の義父は、学徒動員で飛行機工場があった立川市にいました。
戦闘機の操縦席で計器部品をつける仕事でした。ある日、操縦席は温かく、疲労と空腹で居眠りしてしまったそうです。
「おい」と呼ばれて目を覚ましました。殴られる!と身構えましたが、「起きとれよ」と言われただけで済んで、ホッとしたそうです。
また別の日、義父が部品を持って歩いていたら、米軍の飛行機が現れ、低空飛行で襲いかかってきました。機銃の音がして、部品を投げ出して逃げました。数メートル離れた距離に、斜めに走った弾痕を見た時は寒気がしたそうです。
夏に戦争の記録フィルムがテレビで流れると、父も、義父も、「戦争はいやだ」と言っていました。
二人ともこの世にいませんが、話してくれた戦争体験は、決して忘れません。
そして、二度と戦争をさせないと、思い出すたびに決意を新たにしています。(M.I)