下町労働史 86

下町ユニオンニュース 2018年12月号より
戦前の下町労働史 その48   小畑精武
 東大セツルメントの閉鎖
 
 東京スカイツリーが間近に見える墨田区柳島にできた東大セツルメントの活動については第二九、四四号で書きました。一九三六年賛育会病院で生まれた元社会党委員長山花貞夫さん(弁護士)のお父さんで労働、無産政党運動を下町ですすめた山花秀雄さんは二四年九月開講のセツル労働学校第一期生でした。
 労働学校は伝統的に東大新人会のメンバーによって運営され、年二期、一期三か月で、週三回夜間二時間の講義です。校長は末広厳太郎教授。先生は講師の選定や内容は学生に任せられていました。講師の確保が大変でしたが、新人会の先輩たちが忙しいなか来てくれました。
二八年当時の生徒は二五人ほどで未組織労働者が多く、右派、中間派組合の組合員もいました。セツラーも生徒の討論に参加し、教材をつくったり研究会をやったり、工場生活の実状を学びます。
(「東京帝大新人会の記録」)
 労働学校募集のポスター貼り
 二八年春三・一五事件で全国一六〇〇名が検挙、四八四名が起訴されました。労働学校も講師の半数が逮捕、セツラーと生徒の減少のために労働学校は休校に追い込まれます。その後セツルに起居していた武田麟太郎(「日本三文オペラ」の著者)は労働学校での仕事として「労働学校生徒募集のポスターを何十枚も書いた。古い無産者新聞に横細縦太の扁平な字体を発明して書いた。
 糊を『バケツ』にいれ刷毛を持って、亀戸、大島、吾嬬、寺島の方々へ貼って歩いた。また、募集のビラも出来、大きな目標工場の出勤時間をねらって撒布した。生徒は百名近く申し込みがあった」と労働学校生徒募集の様子を描いています。
金解禁による経済不況、世界大恐慌のなかで、労働学校への希望は高まり、三〇年一月の第一四期労働学校には入学生徒七七名、卒業生二一名。三月の第一五期には入学者一二三名、卒業生三六名と開設以来最高となります。これまでの工場労働者に加え、自由労働者、朝鮮労働者(三三名)が増えてきます。居住するレジデントが一二名、セツラーが四〇名に増加したことも拡大の要因でした。東大学内で社会科学研究会、新人会の組織があいついで解散した後、「セツラーは唯一の残された組織となった」のです。しかし、三一年の満州事変を契機に再び縮小に入り、三二年にはセツルメントの中心的事業としてセツルが運営してきた労働学校が事実上消滅していきました。
東大セツルメント
延べ二六〇余名の東大生が参画
 セツルは医療、託児、児童など地道な社会事業的な活動を前面に立て続けられていきます。それでも官憲の弾圧は徐々にこの分野にも広がってきます。医療部からも共産党シンパ事件で逮捕者が出され、拘留一か月後に免官される事件がありました。三三年には東大美濃部教授の天皇機関説が批判されます。セツルの大黒柱であり男爵・貴族院議員でもあった穂積重遠東大教授は法律相談部を担当するとともに、防波堤となって文部、内務、特高部からの解散の圧力に耐え、東大セツルとしての活動を続けていきます。労働者教育部は図書館となり、老朽化した建物も三七年に改築されます。三八年延べ二六〇名余の学生が参画、七〇名余が検挙された「下町コンミューン」東大セツルメントはついに閉鎖に追い込まれました。
安倍首相に聴かせたい!
 セツラーの中には六〇年安保時に警察庁長官となる柏村信雄がいました。時の首相岸信介は柏村警察庁長官を呼んで「ただちにこの違法なデモ隊を排除せよ」と迫った。これに対して、柏村は「今日の混乱した事態は、反安保・反米ではなく、反岸です。このデモ隊を警棒や催涙ガスで排除することは不可能です。残された道はただ一つ、あなたが国民の声を無視した姿勢を正すしかありません」と敢然と答えたそうです。安倍に聴かせたい!
【参考】石堂清倫・竪山利忠編「東京帝大新人会の記録」経済往来社・一九七六、宮田親平「だれが風を見たでしょうーボランティアの原点・東大セツルメント物語」・文芸春秋・一九九五