下町労働史 85

下町ユニオンニュース 2018年11月号より
戦前の下町労働史 その四七       小 畑 精 武
 
戦争直前の中小労組の争議 
 一九三七年七月の盧溝橋事件以来、ころげるように戦争への道を突き進む日本のなかで三八年の下町中小労働者の運動はむしろ広がっていきます。これまで江戸川といっても荒川から西側の亀戸に近い小松川が中心でした。渡辺政之輔たちがつくった南葛労働会の支部があった地域です。
前号でふれた江戸川区の昭和高圧は荒川の東側、当時は東小松川といわれ田んぼが多い地域にありました。一九三八年三月の昭和高圧争議は江戸川の東側でおそらくはじめての争議であったといえます。
 
 葛飾汽船の争議
 たしかに、南部の新川を舞台に一九三〇年八月二三日~九月十九日に葛飾汽船(南葛飾郡〈当時〉葛西村)の三五人が争議に入っています。葛飾汽船の船は十六~十七トンほどの小型船で航路は浦安―新川から小名木川を西へ向かって深川の高橋(たかばし)までの航路でしたので、江戸川が舞台であったとは必ずしもいえません。この一九三〇年の争議の原因は不明です。要研究です。ただ、この頃荒川が開削され一九二八年には荒川にかかる葛西橋が完成、四〇年には千葉県との境に浦安橋が開通し陸上交通が増え、乗り合い蒸気船が廃船に追い込まれているので、解雇や人員削減が想定されます。
 三八年四月には東京汽船(高橋―浦安)三二人の賃上げ、待遇改善争議が高橋で起こっています。組合は総同盟運輸労組です。
 
江戸川の製菓会社の争議
さらに、警視庁の報告には、一九三八年八月に西瑞江四‐二六の旭日製菓(ビスケット製造)での争議が報告されています。この会社は従業員三一人(うち女性二〇人)と女性が三分の二を占め、賃金は最高が月額七〇円、最低が日給一円、平均一円五〇銭です。前回の昭和高圧の賃金は男性が最高日給二円、最低一円、平均一円一五銭でした。最低は一円で同じ、ほぼ同水準です。(大工手間二円)
争議参加は男性のみで八人が全日本労働総同盟関東合同労組に加盟していました。
問題は、事業不振からの解雇通告にありました。この会社は一年半前には別会社が経営し、事業が行き詰って会社を現在の社長に譲ったのです。しかし、新社長は経験不足、従業員は不熟練でたちまち大赤字を出しました。そのため男子八人に解雇予告手当一四日分を支給する条件で解雇を言い渡します。
その後、関東合同労組に応援を求めるとともに、連絡所を設け態勢を整えます。しかし小松川警察署が介入し解散の警告を発します。会社と組合は折衝に入り、結局予告手当以外に二〇日分の特別手当支給で「円満解決」となりました。今でもあるような小さな争議でした。
日本製靴 臨時工解雇 (足立
 足立区千住橋戸町の日本製靴は戦後も続き組合は足立区労協加盟でした。当時は軍隊用の靴を製造する軍需品工場です。三八年一月に成立した軍需工業動員法により管理工場になりました。職工一六一三人のうち本工五三三人(男三六七人、女一六六人)に対し臨時工は三分の二の一〇八〇人‘男七八四人、女二九六人)を占めていました。軍靴の生産が三七年度末に減少し、会社は三月二七日に臨時工一七三人(男一一六人、女五七人)、二九日には八七人(男五一人、女三六人)と総数二六〇人、臨時工の四人に一人が解雇に追いやられたのです。
 平穏に終わった臨時工解雇
 会社は、職工志願者に対して二か月の期間の期限を定め、最初の二週間は見習工として午前七時から午後五時まで出勤して一円。それまでは日給最低一円一〇銭、最高二円七〇~八〇銭と中小より高かかった。退職金はありません。
解雇に対し大部分は注文が減る中で臨時工解雇はやむなしとの声が多かったものの、一部は会社の処置に不満を持ちました。勤続期間が一か月~五、六か月なので退職手当の支給はありません。六か月以上には工場法により一四日分の予告手当が支給されます。三月三一日には賃金が全額支給され臨時工の行動も個人的行動に留まりました。労働組合は、正規五三三人が全日本労働総同盟関東皮技工組合第五支部を組織していましたが、実際の行動には到らず、結局平穏に終わりました。
このように警察は争議に入らなくても火が付きそうな職場を監視し、報告を内務大臣あてに送っていたのです。
【参考】「警視庁内務大臣、厚生大臣あて報告」


八広・上野 レイバー・ウォーク
11月17日(土) 13時半~17時半
京成押上線八広駅 改札集合 ⇒上野駅解散 

「下町労働史」を書いている小畑精武さんがガイドで八広・上野を巡ります。皮革産業で働いた女性たちと、一九三○年代地下鉄銀座線のストライキのあとをたどります。
 資料代五百円