下町労働運動史 76
下町ユニオンニュース 2018年1月号より
戦前の下町労働史 その三八 日本主義労働運動 (上)
小畑 精武
飛行機「愛国労働号」を献納
一九三二年十二月八日、日本造船労働連盟の呼びかけで国防献金労働協議会が結成されます。ここには総連合、東京乗合自動車中正会、関東製鉄連盟の四団体二二名が参加。
目的は「労働者から献金を集め、軍に飛行機(愛国労働号)を献納する」ことでした。
「趣意書」には「満州国の興亡と関連して、未曾有の重大なる難関に当面している。・・労働者の立場から、深く国際平和を愛し、国際間における労働者相互の協力を衷心より望むものでありますが、同時に他国の横暴また無理解に対して、死を持って国防を全うせんとの熱情に燃ゆるものであります。・・ここにおいてわれわれ労働者階級の血と汗をもって、・・労働賃金の拠出により・・ “愛国労働号”を建造し・・国家に献納するものであります」と愛国労働運動が謳われ、戦争への道を転げ落ちていきます。石川島自彊組合は造船労働連盟の前身武相労働連盟に一九二九年五月、二八〇〇人で加盟し「大右翼」の統一・結成をめざしていました。
石川島自彊(じきょう)組合の設立
石川島は隅田川の河口にあります。江戸時代末期に幕府が造船所を建設、以後軍艦が建造され、明治時代から争議が繰り返されてきました。(下町労働運動史 その3参照)
石川島自彊組合本部と購買組合
一九二一年七月には造機船工組合が結成され、評議会・関東金属労組(共産党系)に加盟。関東大震災後の二六年には大争議が起こります。「隅田の河口に、民間造船工場として日本で最も古い歴史を有する、我が石川島造船所にすこぶる悪性のストライキが起こった。・・争議団の要求中の主なるものは、給料の値上げと株主配当を五分以下にせよと云う事であり、しかもその給料は各自平等にせよと云うのであった。」と石川島自彊組合神野信一組合長(当時職長)は自彊組合結成の背景を語っています。
造機労組は、厳しく会社を追及し、副社長を吊し上げました。神野は「石川島の争議こそ全くロシアを模倣する破壊的共産主義運動にほかならない」と徹底批判し、妻子との別れも覚悟、時には肉体的な衝突も起こしながら自彊組合の輪を広げ、造機組合を追いこんでいきました。
争議の敗北から組合崩壊
争議団家族は、争議資金がない争議に追い込まれ『明日の米もない』状況を神野に訴える家族も出る始末。展望なき争議に対し、神野は「①この争議は共産主義の傀儡(かいらい)である。②争議団幹部の人格は低劣だ、③争議団幹部は感情と意地張りで無益の闘いを続け解決の意志がない、④争議団幹部は団員の多大な犠牲をかえりみない」との宣伝を職場に広めていきます。深川公園ではお互いの実力部隊がぶつかり合うことも。そして神野はスト解除に五五〇人を確保して五〇余日ぶりに工場の黒煙を吐き出させました。争議団の無条件降伏に終わったのです。
さらに二八年の三・一五弾圧事件で幹部の大部分が検挙され指導部を失った組合は崩壊状況に陥ちいります。「左翼労組の影響は指導者を失ったあとは意外に弱く、従業員はたちまち御用組合に吸収され、国家主義の温床になってしまうことがわかる」(「「日本労働組合物語・昭和」」と評されました。
日本主義労働運動へ
三〇年一二月には世界大恐慌と軍縮のなか千人の解雇が自彊組合に通知され、定年近い高齢者、独身者を主体とする五五〇人が解雇を余儀なくされます。組合は失業対策を行うとともに、労使共倒れを防ぐための「一通話三銭」運動を自主的に展開しました。残った従業員による「能率増進」をはかり、就業中「無駄口一回三銭の罰金」(東京市内電話)とする規約をつくり予想以上の生産性向上効果をあげました。「労使一体の関係にすっぽり包みこまれていた。恐慌を契機に大企業における労働者の会社への帰属意識はいっそうつよまったのである」(「昭和の恐慌」)
神野は労資協調を「労資対立があって後の協調であり再び割れる」と批判。「労資融合」でなければならないと強調し、これこそが「日本主義労働運動」の真髄と主張しました。