下町労働運動史 71

 
下町ユニオンニュース 2017年7月号より       小 畑 精 武
戦前の下町労働史 その三三
 東武鉄道の争議 
東武鉄道は四六三㎞の営業距離を持ち日本第二位の私鉄です。本社は本所区押上、駅はスカイツリー駅です。昔は始発駅浅草でした。(一九三一年に東武浅草駅は隅田川を渡って松屋二階へ旧浅草は業平橋となる)
一八九九年の開業時は蒸気機関車が客車を引いていました。開業間もない一九〇七年(明治四〇年)には川俣駅火夫(機関助士)がストライキ、一九一九年(大正八年)には浅草駅機関庫で機関手による待遇改善の争議がありました。
昭和のはじめの頃、東武鉄道の運転手は機関庫で教習を受けた後、指導運転手について約一か月の見習い、その後に短い区間の折り返し運転乗務につきました。電車の場合は一日の乗務は浅草と日光間を一往復半が普通でした。その上で三時間から六時間の乗務があり、朝五時に家を出て夜一〇時に帰宅する長時間労働も珍しくなかったそうです。
旅館に争議団本部
 世界大恐慌に陥った一九二九年(昭和四年)から昇給ストップ、他社に比べて低い賃金に従業員の不平不満は高まっていきます。三二年四月、労働組合はなかったのですが、本線、日光線、東上線の運転手一一〇人、車掌一五〇人、検査係四六人が不満を爆発させ争議に入りました。
201707
(杉戸・浜島旅館に陣取った争議団 『埼玉百年史』より転載)
四月二〇日に西新井、栃木、川越の三車庫主任に以下二六項目の要求を提出、二一日午後五までに回答することを求めました。戦争に動員された労働者の賃金保障や住宅手当、退職金、就業規則改悪の回復など当時の生活や職場の状況がうかがえます。
①軍隊への応召者への軍支給を除く全額支給、
②動員の場合は現職とし全額支給、除隊後は現職現級のまま復職、
③社宅料市郡部を問わず一〇円(現行六円)に、
④公傷者も③と同様に、
⑤病気による解雇強要は絶対廃止、
⑥病気欠勤中の待遇を月給者と同等に、
⑦自己退職の三割減の廃止、
⑧皆勤者の休暇増、
⑨運転手心得の初任給改善、
⑩退職金の一〇か月増、
⑪乗務時間外手当の改善、
⑫車庫内時間外のアップ、
⑬電気技手、検査係の見習期間一年に、
⑭電気技手、検査係の初任給を一円四〇銭に、
⑮昇給停止期間の昇給を四〇銭に、
⑯略、
⑰忌引きの復活、
⑱制服規定の復活、
⑲八時間労働に、
⑳略、
㉑食事時間を、
㉒略、
㉓略、
㉔略、
㉕作業所付近に井戸、便所を、
㉖春秋作業着二着を。
会社無回答、サボタージュへ
二一日午後五時に会社からの回答はありません。従業員側は激昂しサボタージュ状態に。代表六人を本社に派遣し改めて嘆願書を電気課長に提出し、翌日午前三時半まで交渉しましたが決着がつきません。
二二日午前五時始発より、本線と東上線の全線ストライキが決行されていきます。会社はストを全く予想していなかったので大混乱に陥りました。ストは姉妹会社の上毛鉄道にも飛び火。争議団は本線杉戸駅(現東武動物公園)前の浜島旅館(写真)に籠城し持久戦の準備を開始。運転手と車掌がそれぞれ会社との交渉を始めます。しかし、要求の重要事項である昇給停止分の補償、住宅手当増額、休暇増を会社は認めず、交渉決裂。
切り崩しをはね返す
会社は切り崩しを謀りますが労働者の結束は固く、陸軍当局が「応召者全額給費」を支持し政治問題化を恐れた会社は軟化。二二日夜中から杉戸署で交渉が再開し、二三日午前五時労働者側勝利で争議は終結しました。
主な要求であった、応召者への全額給費、現職復帰、住宅手当引上げ、病気退職強要は避ける、退職金三割削減の廃止、半年皆勤者への二日間休暇の保障、昇給は最低五銭以上、忌引き規定の復活、作業場付近の井戸・便所の整備など、争議犠牲者は出さないとほとんど受け入れられ、解決見舞金千円が支払われました。その後も三七、三九年と東武では労働争議が起こってます。
【参考】宮代町立図書館デジタル郷土資料
 大原社会問題研究所編「日本労働年鑑」
第一四集一九三三年版)