下町労働運動史 53
下町ユニオンニュース 2015年12月号より
戦前の下町労働史 その一六 小畑精武
大島製鋼所の争議 上
一〇六日の闘い
これまで紹介した東洋モスリンや第一製薬の闘いが始まった頃、大島四丁目(西大島ダイエー裏)にあった大島製鋼所では工場閉鎖反対の闘いが展開されていました。
一九三〇年頃の争議の背景には二九年に始まった世界大恐慌があり、大島製鋼所も事業不振に落ち込んでいました。大島製鋼所は一九一六年七月に鉄鋼、鍛鋼工場を建設、一七年には製線工場が完成しています。資本金六百万円、総従業員株式会社製鋼と機械などの製造会社で、大倉系の資本(東洋モスリンと同じ系統)、労働者は二八七人。警視庁は組合加入者を約一二〇人、内訳として労農党系東京金属労組七〇人、全国大衆党系(この時点では独自の組合はなく南葛合同労組の組織化を計画)五〇人と見ていました。
これまで大島製鋼所では一九一九年に整理解雇反対や賃上げ闘争を平沢計七などの指導の下に総同盟の組合として闘っています。(下町労働史、13参照)
七月三〇日会社は「①請負制の廃止、②伍長、組長の常備手当廃止、③土曜日の休業を発表。八月二日に伍長、組長代表が会社に「今回の職制改革は過酷に過ぎるので他の方法を講ずること」と申し入れます。しかし、長谷川専務は会社の現状より一歩も容認する余地はない」と突っぱねました。
総罷業(ストライキ)へ突入
八月四日通常に出勤した労働者は工場内空き地に集合。東京金属労働組合大島分会として協議し、「①絶対解雇者を出さないこと、②常備手当廃止反対、③強制臨時休業(土曜休)をしないこと、④労災死亡の遺族に5千円の扶助料を支給すること」の嘆願書を作成、午前九時会社に代表七名が赴き前日の嘆願書を取消し、提出しました。
会社の庶務課長は「自分一存では何もできないので専務か社長に直接会見のうえ交渉してほしい」と嘆願書を受理しません。こうした会社の不誠意な態度に怒った労働者は「罷業やむなし」を決意して午後二時から職場放棄・総罷業(ストライキ)に入りました。
工場付近に争議団本部を設置
ストに入った労働者は大島一丁目にある東京府立大島職業紹介所に集まり、夜の九時まで要求提出の報告、争議団について協議を続けます。会社は当初「罷業には入らない」と問題を軽く見ていました。しかし、総罷業の決行をみて意を固め「粗暴過激の行動に出るものは断固解雇」の意を固めたようです。
翌五日、争議団は会社近く大島五丁目の空き家を争議団本部とし、一五〇人が結集、争議団長に斉藤常太郎を選出。さらに要求書提出のため丸の内にある本社へ代表八名が赴きます。大川社長、長谷川専務が不在のため、社長秘書に提出。秘書は代表団の個々に意見を聞き「諸君の意見は不統一であるので、全従業員の要求とは認められないが、一応会社で預かっておく、諸君も十分考慮してほしい」と答え、午後五時本社を出ました。
十六項目の要求を提出
要求は以下一六項目です。
①解雇絶対反対、
②歩合を本給に改めよ、
③強制休業廃止、
④工場設備の完備、
⑤食堂の設備、
⑥衛生設備の改善、
⑦労災遺族へ5千円支給、
⑧傷病手当の制定、
⑨最低賃金の制定、
⑩解雇退職手当の増額、
⑪臨時工の本工化、
⑫昇給制度の制定、
⑬入社、退社時間の改正、
⑭争議中日給全額支給、
⑮争議による犠牲者を絶対に出さないこと、
⑯争議費用会社負担
最低賃金や臨時の本工化の要求もみられ、交渉による争議解決の可能性がありました。しかし、会社は争議団の思惑を超えて徹底合理化・工場閉鎖への道を進みます。
争議支援の動きは早くも始まり、五日深夜には亀戸八丁目の日立製作所に争議団本部のビラが東京金属労組(労農党系)によってまかれました。大衆党系も独自決議を会社に提出します。他方二四人が争議に参加せず、会社に出勤しています。(続く)
【参考】警視庁争議報告(大原社研所蔵)