下町労働運動史40 戦前の下町労働史 その3

下町ユニオンニュース 2014年10月号より
                                   小畑精武 
中小労組の争議と第一回普選
 大正から昭和への時代は、ある意味では岐路でした。労働運動・社会運動など民主主義、軍縮の運動と侵略・軍国主義への道がはげしく攻めぎあったのです。
大正一五年は一二月に昭和となります。下町では共同印刷争議につながる凸版印刷本所工場の組合脱退拒否ストライキが二五年一〇月に闘われ勝利しました。翌二六年(大正一五年)一月から五月にかけて、中小企業での争議が頻発しています。南葛飾郡大島町(現江東区大島)を中心に一四件の争議が闘われています。京成電車のストはすでに四月号に紹介しました。
南葛飾郡大島町 四件
南葛飾郡亀戸町 一件
南葛飾郡不明  一件
本所区向島   三件
本所区外手町  一件
深川区     二件
南足立郡綾瀬  一件
争議の争点は
解雇反対 五件
待遇改善・賃上げ五件
工場閉鎖反対 二件
賃下げ反対 二件
解雇手当・退職金引き上げ 一件
現在も解雇問題は最大の労使の問題で、個別労使紛争の争点でも最も多い問題です。賃上げはじめ待遇改善も重要な課題でした。大戦後の経済は悪化したままで、工場閉鎖反対や賃下げ反対が目立ちます。金融恐慌から二九年の世界大恐慌、一九三〇年の東洋モスリン二〇〇〇名の大争議へとつながっていく前哨戦でした。
 共産党への弾圧、続く争議
一九二八年には、戦前最長の二一九日におよんだ野田醤油争議が解決します。直後に有名な三・一五共産党弾圧事件が勃発、全国で検挙者は千数百人に及びました。
しかし、現場の争議は続きました。総同盟系は組織を拡大していきます。一九二八年の罷業怠業は三九七件、参加人員は四六二五二人に及んだのです。
三月には本所の業平橋の大日本自転車会社(一九一六年設立、東京鉄工組合本所支部所属)の従業員が賃金改正を要求し、協定に達しました。しかし、会社は実施せず、四月二七日には組合幹部七人を解雇、五月二日にはさらに組合幹部一三人を解雇しました。これに対して、従業員は「解雇者の復職」「歩増金を本給にくり入れ、三割増給」など七項目を要求しストに突入、八〇日間の長期ストを闘いました。当時の自転車は現在の自動車に匹敵する重要な運搬手段です。宮田はじめ下町には多くの自転車工場がありました。
長期ストは七月一五日にほとんどの要求を通して解決に至ります。しかし、解雇者二〇人のうち復職は一〇人にとどまりました。
 この時期には、逓信省関係の逓友同志会は組合員を拡大し二〇〇〇人を突破、亀戸にも支部がつくられてます。
  健康保険法争議
 健康保険法は一九二二年に成立、一九二七年から実施されます。工場法、鉱業法適用労働者を被保険者とし、報酬の百分の三を労使折半するもので、傷病給付、傷病手当、分娩給付、死亡給付などが支給されるもの。しかし、家族に適用されません。給付が一八〇日で打ち切りなどの問題があり、保険料の強制徴収への不満が高まりました。
 総同盟は積極的に加入し改善する方針でしたが、評議会は「欺瞞的で労働者に負担を転嫁するもの」として批判、一九二六年暮れから二七年のはじめにかけて、ストライキを展開、深川の浅野セメントでもストが闘われました。なかには全額会社負担を勝ち取った組合もあります。
 五法律獲得闘争
すでに当時、労働組合法の議論が進められていました。しかし、結局戦前には制定されなかったのです。現在につながる失業手当、健康保険会社全額負担、最低賃金法、八時間労働法、婦人青少年労働者保護法の制定、改正を求め、評議会を中心に東京交通労働組合などが参加し、五法律獲得全国協議会が招集されています。本所のガラス労働者五千人は一時間のストライキを打ちました。だが実際には力が不足し、普通選挙制の下労農党と連携して新たに始まった府県議会選挙の運動を進めることになりました。
【参考】「日本労働組合物語・昭和」(大河内一男、松尾洋、筑摩書房、一九六九年)