下町労働運動史 (38) 戦前その1

下町ユニオンニュース 2014年7月号より
戦前の下町労働史 その一
 野田醤油の大争議             小畑精武
     
  
 すでに前号で大正から昭和への橋渡しがすんでいますので、本号からは昭和に入ります。昭和というと「戦争と平和」の時代です。あまりにも戦前と戦後の違いがありすぎるので、昭和と一括りにはいきません。第一に国のかたちを決める憲法が全く違います。労働運動も戦前と戦後では全く違います。したがって、昭和ではなく、戦前と戦後に分けて「下町労働史」の旅を続けます。
 野田は千葉県北西部、江戸川の少し上流にあり、下町ではありませんが隣です。最近では、公契約条例をはじめて制定した市として有名になりました。もともとは戦国時代から続く醤油のまちです。キッコーマンで有名になる野田醤油株式会社は地域の醸造会社が合併して一九一九年に設立されました。もともとは年季奉公の出稼ぎ労働者が多かったのです。
年季労働者が大巾賃上げスト
合併して間もなく年季の切れ目(雇用契約)の更新期)に、物価の高騰を理由として大幅賃上げを要求して、一月一五日から全工場の労働者がストに突入、二三日には解決しました。
運動史38回
ストライキ突入集会(1927年)
 一九二一年北海道室蘭製鋼所の争議を指導して解雇され小泉七造が野田に来ます。野田醤油争議を解決することになる松岡駒吉(後に総同盟会長)と一緒でした。
 小泉は作業中にけがをした労働者を介抱したことをきっかけに労働者を仲間にして、同年一二月には総同盟野田町支部を結成。二三年には関東醸造労働組合が結成され、約一五〇〇人の野田支部となります。
   近代的労務管理へ
 一九二三年一月(関東大震災の年)、「工場制度の改善」が実施され、宿舎の整備、年季制から日給制、一日八時間労働制、工員給与規定、親分による中間搾取の廃止など近代的労務管理が導入されます。しかし、その後も毎年のように賃上げ不履行や労組幹部解雇問題が発生しました。二四年にはストに発展しました。会社は組合対策を強めます。
一九二五年に新工場が完成。この間組合に押されてきた会社は組合対策として、組合に極力加入しないことを誓約させます。一九二六年(昭和二年)に入り、会社はさらに組合への攻勢を強めます。まずは、醤油の運搬を一手に引き受け、労働組合がある会社とは別の会社を設立し、従業員には労働組合加入を認めません。組合は会社に対し、元に仕事を戻すこと、組合切り崩しではないかと要請した。会社は「言いがかり」として、回答拒絶。
  戦前最長のストライキ(219日)に 
 九月一五日組合員二〇〇〇人が続々と集結、満場一致でストライキを決議します。その後、新工場での操業、竹やり事件を準備した組合員の解雇、組合の内紛、会社の切り崩し、松岡駒吉の会見申し入れ(会社拒否)、出勤催促、応じない一四九名への懲戒解雇通知、小学生五四六人の同盟休校、七三五名の大量解雇、右翼による争議団襲撃、会社役員への硫酸事件、会社によるファシスト映画の上映、亀甲万のボイコット、組合員による会社側人間への暴力事件が展開され、争議は年を越す状態となり、「争議団女房連」の内務省への争議解決促進要請に至ります。闘いは家族ぐるみとなりました。二月、総同盟は松岡駒吉に全権委任します。
その後も三月に争議団副団長の天皇直訴事件が起こり、協調会が動き始め、最終的には「争議団の解散、復職三〇〇人、解決金の支払いなど」により、実に二一九日に及ぶ戦前最長のストライキは敗北のうちに二八年四月二〇日解決したのです。
 「組合は大きな犠牲をはらって壊滅し、ふたたび起つことができなかった」のです。
 この野田醤油争議には下町からも江戸川土手を赤旗かついで支援に行ったそうです。
【参考】
「ぼくたちの野田争議」(石井一彦、ふるさと文庫、崑書房、二〇一二)
「日本労働組合物語‐昭和」(大河内一男、松尾洋、筑摩書房、一九六五)