下町労働運動史 (23) 大正時代その15
下町ユニオンニュース 2013年3月号より
大正時代の下町労働史 その一五
小畑精武
本所被服廠跡で亡くなった活動家
大震災で東京の工場の九〇%が被災、三七八〇人の職工が亡くなり、失業者は八万四千人に達しました。無念にも殺された亀戸事件の犠牲者。運よく生き延びた純労働者組合の戸沢仁三郎や獄中にいて助かった渡辺政之輔たち。他方、残念にも震災の犠牲者になったリーダーもいました。日本交通労働組合本所支部長の島上勝次郎さんです。
島上さんは一八八一年生まれ、東京市電本所車庫の車掌として、一九一九年に日本交通労働組合を結成。その後、支部結成を待遇改善とともに車庫ごとにすすめました。しかし、当局は支部の中心メンバー一〇名を解雇。専従となった島上さんたちは一九二〇年二月に五日間に及ぶ市電ストを指導。残念ながらストライキは敗北し、組織は解体して、振り出しに戻りました。
翌二一年秋には再度本所出張所の青年たちと相扶会を結成します。この組織は二四年には東京市電従業員自治会の核となっていきます。島上勝次郎さんは九月一日に避難先の本所被服廠(軍服工場)跡で炎に包まれて亡くなりました。被服廠跡は現在両国の横網町公園となり大震災犠牲者の慰霊堂があります。
38,000人が亡くなった本所被服廠跡
被服廠跡は当時広場になっていて大震災の被災者が続々と集まり、たんすなど家財道具を持ち込む人でごった返していました。そこに地震による火災の火がまわり、火災旋風が発生して、荷物や馬までも巻き込まれるという大火災となりました。島上さんはそうした地獄図の中で亡くなっていったのです。
島上勝次郎さんの長女くにさんと二四年に結婚して島上姓を名乗ったのが島上善五郎さんです。
島上善五郎さんのこと
善五郎さんは本所車庫の車掌で勝次郎さんの後輩でした。勝次郎さんがつくった相扶会のメンバーとなり、二四年の市電従業員自治会結成に参加、本所支部長兼本部執行委員となります。島上善五郎さんはその後も市電労働運動はじめ、労農党、無産党、戦後は東京交通労働組合の再建、そして総評初代事務局長、社会党衆議院議員となって活躍します。
偶然ですが、私は江戸川区労協のオルグになったばかりの一九六九年一二月に島上さんの衆議院選挙を戦いました。当時の旭喜久男区労協事務局長(江戸川区職労書記長)と選挙ポスターを張る杭打ちをした記憶があります。残念ながらその選挙で島上さんは落選し、政界から引退していきます。
島上さんは歴戦の闘志にはみえない好々爺でした。区労協学習会で島上さんの話を聞く機会がありました。
「戦前は天皇が皇居からお出ましとなると、二、三日前に必ず刑事が私の所にやって来たものです。私を留置場へぶち込みました。天皇が戻ると釈放されましたが・・」。
予防拘束ですね。今は警察にぶち込むことはないようです。それでも、事前に公安刑事が来たり、問題を起こしそうな活動家を遠くへ出張させる会社もあるようです。島上さんの話はまだありますが後にまわしましょう。
石川島造機船工労組の救援活動
鈴木文治会長の労働総同盟は震災後七日に緊急の協議会を開き、罹災会員の調査と
救援に努力することを決めています。(詳しくは次号以降で述べたいと思います。)
壊滅状況の下町で救援活動を組織的に行うことは難しかったと思われます。それでも石川島造船所の造機船工労働組合は組織的救援活動をすすめました。幹部が旅費や小遣いを出し合って、焼け跡の片づけ、機械の修理、取り付け工事などを請負い、組合員に仕事を紹介しています。一〇月には深川の一角に無産者浴場を開設して、近所の人たちから感謝されたそうです。
【参考】「日本社会運動人名辞典」(塩田庄兵衛、青木書店、一九七九年)「社会労働大事典」(旬報社、二〇一一年)「日本労働組合物語・大正」(大河内一男、松尾洋、筑摩書房、一九六五年)