下町労働史 87
下町ユニオンニュース 2019年1月号より
小 畑 精 武
戦前の下町労働史 その四九
労働者消費組合運動と戸沢仁三郎 ①
下町の労働運動を語るとき、労働者消費組合を抜きに語ることはできません。ある人は「労働運動は労働組合、労働者協同組合、労働者消費、労働者共済運動から成る」といっています。労働NPOも労働運動の一翼を担っていると思います。
下町の争議は組合員に米、味噌、醤油、炭などを供給する労働者消費組合運動抜きには戦えなかったでしょう。たつみ生協や江戸川生協が発展した現在の地域生活協同組合は巨大な組織・運動体に成長していますが、ルーツは争議を支えた労働者消費組合にあったといえます。
渡り職員だった戸沢仁三郎
そのなかで、リーダーの役割を果たしたのが純労働者組合の理事長であった戸沢仁三郎でした。戸沢は一八八九年東京市本所区番場町(厩橋)に生まれ、鋳物工場で働きながら東京府立職工学校を卒業、芝浦製作所に採用されます。将来の工場主をめざして、名古屋、大阪、佐賀、福岡などを職人として渡り歩き、腕を磨き、同時に友愛会に加入しました。そこで、「労働及産業」を購読、東京に戻って勤めはじめた浜田鋳物工場で職工二〇数名と労働条件改善に立ち上がりました。その後退職し、一九年に日立亀戸工場に入職し、友愛会に再入会します。
一九年五月に自宅(亀戸五ノ橋)に近い総同盟城東連合が大島製鋼所(現在は大島四丁目団地)解雇反対闘争に勝利し、五の橋会館で集会を開きます。そこで戸沢は、人道主義的な労資協調思想の上に立って労働者の要求を強調し、圧倒的な聴衆の拍手喝さいを浴びました。この演説が総同盟城東連合会会長平沢計七に認められ、三〇歳で連合会の書記に。
しかし、八月の友愛会関東大会で、城東連合会亀戸支部から平沢計七の久原製作所(日立製作所の前身)亀戸工場争議指導の敗北について「労資協調」との批判が出されます。当時サンディカリスト(戸沢三郎による評価)だった渡辺政之輔や学生あがりのインテリ棚橋小虎たちから出された批判です。除名要求の動議が総同盟関東大会で出され、結果平沢以下城東連合の大半が友愛会を抜けました。
純労働者組合の理事長に
二〇年一〇月二日に純労働者組合が結成され、戸沢が理事長に選出されます。戸沢は「純労のこととなれば、亀戸事件で殺された平沢計七という人のことをお話ししなければならない。あの方は、徹底した労資協調なのです。書いたものにはよく平沢さんはサンジカリストとなっていますが、決してそうではない」と厳しい評価。この場合の“労資協調”とはストを背景とした大衆的団交による闘いではなく、平沢たち幹部の個人交渉に委ねられていったことであり、友愛会の鈴木文治会長がとってきた路線でした。
友愛会は、この路線から徐々に転換し、サンディカリズムからマルクス主義へ移行していきます。純労は逆に「すべての決議権は純労働者自らが握る」(綱領)サンディカリズムに傾斜していきました。
消費組合共働社の設立
同じ一九二〇年、第一次世界大戦後の不況のなかで、大島労働会館の一角に労働組会員が中心となる消費組合共働社が設立され第一歩が踏み出されます。しかし、純労の中に労働組合派と消費組合派の分岐が生まれ、戸沢は労働組合の活動を重視する立場から分裂を危惧します。一九二一年の共働社第一回総会では、余剰金の処分案として、その四分の一を労働運動基金とすることを決議し、労働組合運動重視の姿勢を示します。さらに二二年の第三回総会で消費組合員の資格を「労働の報酬を以て生計を立つる者に限る」と未組織労働者にも門戸を広げ、同年三月日本で初めての信用組合労働金庫を純労は設立し、認可を受けました。
二三年関東大震災が下町を襲います。亀戸事件で川合義虎ら南葛労働会八人、平沢計七ら純労二人が権力の手で虐殺されました。戸沢は身の危険を感じ、大阪に逃げました。
【参考】▼「南葛から南部へ―解放戦士別伝」伊藤憲一、医療図書出版社、一九七四 ▼「日本労働運動の先駆者たち」労働史研究同人会、慶應通信・一九八五 ▼「評伝平沢計七」藤田富士男、大和田茂、一九九六、恒文社