下町労働史 82
下町ユニオンニュース 2018年7月号より
戦前の下町労働史 その四四 小畑精武
東京印刷争議と出版工クラブ・下
一九三七年七月盧溝橋での日中衝突から日本は中国への侵略を拡大していきます。一〇月には「罷業絶滅宣言」が全総(総同盟)によって出され、一二月には人民戦線事件で島上善五郎、山花秀雄、向坂逸郎、高野実など四百余人の合法左翼が一斉に検挙されました。
一九三八年三月には、すべてが戦争目的に動員される国家総動員法が成立、軍事優先により印刷業界も大きな痛手を受けます。労働組合にも大きな圧力がかかり、東京印刷工組合も解散に追 い込まれました。石川島や東京交通労組では産業報国連盟の動きが本格化してきます。
それでも印刷工クラブは拡大を続けます。
柴田隆一郎は「どんな時代にも職場には無尽蔵の幹部になる素質を持った活動家がいるはずだ。むしろ労働者の生活がひどくなればなるほど活動家は正しい行動のために立ち上がるはずだ」との信念も持って、活動家づくりを進めていきました。
一九三九年にはクラブ員の倍増運動をすすめます。そのために工場での趣味調査を行いました。その結果、登山、ハイキング、映画、俳句、読書会などの会が組織され、会員もふえていきました。さらに、シャツ、下着、靴下、草履などの生活必需品を仕入れ、街の価格よ り二~三割安く印刷工場を廻って売り歩きました。「よい人、良い腕、良いクラブ」を標語にして各工場との連絡をキープしていきます。昼休みを活用して機関紙の配布、会費集金、共同購入もすすめました。
今年104歳の杉浦正男さん(「戦時中印刷労働者の闘いの記録」編者)
生活の悪化とクラブ員の増加
軍需物資の生産と反比例するように労働者の生活は苦しくなります。職場の労働者は不足するなか、定期昇給制度と出来高払い賃金制度が全国的に採用されていきます。実際には軍隊への召集令状で簡単に放り出される臨時工制度が全国に広がっていきました。こうしたなかクラブへの参加者は増え続けて一〇三社、一五〇〇人に達します。また、人民戦線運動を無視することなく、親睦会の統一を考え、日本印刷技術員協会、親技会、欧友会などに統一懇談会を提 唱しました。
三九年夏にクラブは七月から二ヵ月間江の島に海の家を借りました。布団はクラブ会員から借り、クラブの白石が二ヵ月間自分の家を引き払って住み込んで申込書、宿泊券の発行など世話をしました。
出版工クラブへの解散命令
一九四〇年一〇月には大政翼賛会が結成され、民間の自主的団体は解散に追い込まれていきます。労働組合も三八年に産業報国連盟が発足し徐々に解散に追い込まれます。産業報国会は三八年末には一一五八団体、三九年末には1万9670団体、会員数約三〇〇万人へと急速に拡大していきます。
クラブ活動の禁止・解散へ
労働組合、市民団体などの禁止の流れの中で、クラブは「生き残り」を試みます。四〇年八月末に一五人ほどのクラブ幹部が 江の島に集まり、今後の運動について協議しました。協議の結論に基づき、クラブは愛宕署特高臨席のもとに「偽装」解散式を行いました。
しかしクラブは印刷工場と工場をつなぐ活動を続けます。深川、京橋には「曙旅行会」「あさぎり吟社」ができあがります。神田、芝とつなぐ簡易図書館が錦糸町の柴田の家に置かれます。賀川豊彦の協力を得て木炭の協同購入(貨車二両)を実行したり、合法的技術研究の活動も行いました。まだ活動は続きますが、四一年一二月に始まる太平洋戦争中の活動は次の機会にしたいとおもいます。
【参考】
「戦時中印刷労働者の闘いの記録・出版工クラブ」(杉浦正男編、一九六四)