下町労働運動史 73
下町ユニオンニュース 2017年10月号より
小 畑 精 武
戦前の下町労働史 その三五
東京瓦斯(ガス)労働組合の歴史(中)
一九二九年(高橋治巳初代江戸川ユニオン委員長が生まれた年)世界恐慌の波の中で産業合理化が進み、操業短縮、解雇、失業者が増加(三二万人)し、争議も一四二〇件と前年一九二八年の五〇%増しとなり、さらに三〇年には倍加し参加者も八〇数万人になります。小作争議も二九年に二四〇〇件に達しました。こうした状況下で東京市電や東洋モスリン争議が闘われました。争議は合法化されておらず常に官憲の監視のもとに闘われ検挙が横行し、組合大会ですら警察官が監視し「弁士中止」が連発されました。(写真)
官憲が臨席した第2回大会
鶴見新工場で組合支部建設に成功
東京ガスでは二九年に増資が中断し、ガス需要が低迷、産業合理化をすすめ、労務管理体制を強化していきます。対する東京ガス労組も新たな体制に対応する陣形をつくっていきます。三〇年には鶴見に他の工場の合計製造量を上回る大工場が建設され、会社は新規従業員をガス労組に加入させないために御用組合を組織しました。
組合は、個人説得、宣伝ビラはじめあらゆる戦術を用いて組合加入を呼びかけます。組合は供給関係の組合員を使って鶴見工場内入り込みオルグと支部建設をすすめ、三〇年三月に全員が加盟する鶴見支部が発足しました。
深川仏教会館で第一回大会
四月六日第一回大会が深川で開かれます。一七〇名の各支部代議員が出席、傍聴者を含め立錐の余地がないほどの盛況でした。しかしここでも州崎警察がものものしく警備するなかで開かれたのです。
「・・・今や資本主義の攻勢は我が無産階級の上に猛然とその鉾先を向けて迫ってきた。資本家本位に組み立てられた金解禁産業の合理化等は実に彼らの巧妙なる無産階級へ対する挑戦である。・・」とし「八時間労働制の実施、労働組合法の確立を期す。」という大会宣言を採択し、一九の本部提案の大会決議を活発な討議を経て決議しました。
以下の大会決議から当時の労働組合がどのような要求をしていたのかを知ることができます。
①兵役の義務に関する件
② 共済会規定改正の件
③ 八時間制実施の件
④ 退職手当給与規定改正の件
⑤ 会社都合における職制変更による収入減反対
⑥ 忌引き休業給与の件
⑦ 精勤休暇要求の件
⑧ 組合法制定要求提出の件
⑨ 資本主義産業合理化絶対反対の件
⑩ 無産党入党の件 (論議尽きず委員付託・次期大会に上程)
⑪ 瓦斯従業員単一組合組織の件
⑫ メーデー参加の件(以下略)
この他に⑱に本部事務所設置の件があり大会後深川製造所の近くに「あまり広くない店舗向きの二階建て家屋」を借りて事務所とします。専従者は置きませんでした。
警官監視の中で第二回組合大会
一九三一年に開かれた第二回大会は、四五〇〇人の組合員、前年の東洋モスリンやお大島製鋼争議にみられるような労働運動の盛り上がりの中で開かれます。前年の東洋モスリン争議支援にはガス労組からも参加、一七人が検束されました。この年のメーデーの参加者は全国で三七、五〇〇人、ガス組合は組合員の約三分の一、一三四七人が参加、大きな盛り上がりをみせます。
大会は、干渉する警官五〇人がゲートルで武装、出入り組合員を一人ひとり厳重に身体検査。指揮の警官は四、五人の警官を従え演壇に陣取り、祝辞や激励挨拶に出る弁士に次々と演説中止、それでも日曜の午後一時から夜一〇時までぶっ通しで行われ、大会宣言を可決し、停年制反対闘争に入っていきます。
(つづく)
【参考】「東京瓦斯労働組合史‐大正八年より昭和三〇年まで‐」(東京ガス労働組合、一九五七年)