下町労働運動史 72
下町ユニオンニュース 2017年8月9月合併号より
戦前の下町労働運動史 その34
小畑精武
東京瓦斯(ガス)労働組合の歴史(上)
築地市場の移転問題で脚光をあびている江東区豊洲には一九五六年から東京ガスの工場があった所です。歴史的には江東区猿江の深川製造所が古く一八九八年(明治三一年)に造られました。はじめて労働組合が結成されたのは一九一九年(大正八年)一二月です。深川、大森、芝のガス製造工場労働者五六〇人を代表する二〇〇人によって友愛会本部で結成されました。
当時の初任給は日給四〇銭(当時の白米が高騰し一升四〇銭!)ガス製造は重労働でした。最初はむつみ会、誠心会など親睦的結合が母体となったそうです。
ユニークなのは「組合精神及綱領」です。「一、精神 国家主義精神ヲ涵養シ共存共栄ヲ以テ組合精神ノ大本トス 二、綱領 1作業能率ノ増進ヲ図リ労働条件ノ維持改善シ生活ノ安定ト向上ヲ図ルヲ以テ目的トス 2略」
大正期に「国家主義精神ヲ涵養シ」を真正面に掲げた「右翼的」組合は珍しかった。大正元年(一九二二年)結成の友愛会はキリスト教徒である創設者鈴木文治の影響が強くありました。名称も労働組合ではなく「友愛会」と名付けられ、①相互扶助、②識見の開発、徳性の涵養、③協同の力、地位の改善をかかげています。
要求を実現した争議
「要求条項 1職工の人格を尊重せられたき事 2労資協調の機関を組織せられたき事、3ガス工組合を承認せられたき事 4臨時手当の増額、5各半期に二か月分給与、6月2回の有給公休、7退職金の改善など(一部略)」精神は国家主義でも要求はガス労働者の労働と生活に根ざしたものでした。
古い先輩たちと若い組合員とは思想的に一致せず経験ある先輩たちに対して歯が立ちません。それでも当時の労働運動の高揚、社会主義との結合のなかで、国家主義精神綱領は実際には空文化していきます。
この嘆願書は各事業所に出され、十二月二七日から争議に入ります。本社では嘆願書が返され、夜から深川製造所はサボタージュに突入。ガスの圧力が下がり、警察が干渉に乗り出し、深川の組合事務所は私服刑事が取り巻き、出入りする者を尋問、身体検査をして圧力を加えました。しかし組合は賞与を一ヶ月削られたほかは交渉でほとんど獲得し、組合への加入者が日増しに増えました。
連続した下からの争議と労組の持続
その後関東大震災で大きな被害を受けたが救援活動に力が注がれ、徐々に一九二六年には全従業員の四分の一、組合員は一〇〇〇人に達します。そして、①退職手当の改正、②公休日の改正、③日給一〇銭値上げ、④夜勤手当の改正の嘆願書を会社に提出しましたが、受け入れられません。再び争議になります。(第二回争議)
この争議は組合本部のスト指令によるのではなく、各職場から要求を会社につきつけ、応じない会社に対して工場毎にスト状態に入っていきました。深川、芝、千住の工場は供給不能状態となり会社は追いつめられ、退職手当改善を実現します。背景には金融恐慌にもかかわらずガス販売量増加と石炭価格の低落がありました。一九二七年の第三回争議では休暇増などの成果をあげました。
争議に警視庁が干渉
一九二六年から従業員は一・三六倍の五三八三人、製造量は一・八倍と増加しますが、労働強化がすすみます。当時は公休日が月二回しかなく、会社の休日変更に従わなかった浅草支部の支部長が解雇され争議となりました。結果は支部長の復職は認めたものの公休日の問題は未解決のまま終決。一〇月に再び待遇改善一〇項目要求を提出。会社は拒否。そこへ警視庁が「非公式調停」と称して干渉し一〇項目要求の撤回を余儀なくされました。 (つづく)
【参考】「東京瓦斯労働組合史‐大正八年より昭和三〇年まで‐」(東京ガス労働組合、一九五七年)