下町労働運動史 64
下町ユニオンニュース 2016年12月号より
戦前の下町労働史 その二七 小畑精武
もぐらのうた・上
東京地下鉄の争議・前史
日本最初の地下鉄は一九二七年一二月二〇日、上野と浅草間のわずか二・二キロメートルが開通しました。現場従業員はわずか五〇数名のスタートでした。
地下鉄の計画は山梨県生まれの早川徳次が同郷の根津嘉一郎(東武鉄道の創始者)の協力を得て、一九二五年九月に起工。地表から掘って切り開く開削工法ですべて人海戦術でした。
開通の半年前に、会社は根津と早川の郷里である山梨県内で労働者の募集を行い、農家の子弟三〇〇人ほどが応募、高等小学校卒業程度の試験と口頭試問により、一七~三〇歳の男性三三人が採用されます。
会社は近くに寮として普通の家を借り、五班に分けられました。初日は明治神宮を参拝し社長の話を聞きました。二日目からは、講義と実習で日給一円が支給されました。学科は七月から車両、信号、軌道、電気、運転。実習は一〇月から入り、省線(国電)蒲田車庫で朝八時から夕方五時まで運転練習を二十日間、二一日からは原町田と東神奈川の間で試運転教習をしています。車掌は実習のため省線の各線に配置されました。
十一月には地下鉄車両が入り(地下鉄はどこから地下に入るのでしょうか?)、毎日車両みがき、雑巾がけ、変電所の磨き掃除、砂利かつぎ、夜の警備巡回まで大変でした。
開業する一二月からは上野と稲荷町間で試運転、車掌はドアエンジンの訓練。一七日には教習所の卒業式を迎え、会社規約厳守の宣誓式も行いました。給料も決まります。
運転手 日給一円六〇銭~一円七〇銭
車 掌 日給一円五銭~一円六銭
募集広告より一〇銭安いことに不平が生じます。地下労働は非衛生的、過労も加わり目が見えなくなる労働者も出てきました。会社は舎監と置き「泉の花」という修養冊子を持ち込んで問題のすり替えを行いました。
一日一三時間の超長時間労働
休暇は一〇日に一回、労働時間は午前出が午前六時から午後三時に残業五時間が加わり午後八時まで、午後出は午後三時から翌日の午前〇時に午前一〇時からの早出で加わり、一日一三時間の超長時間労働です。
開通の翌年一九二八年三月、運転手一二,三人が以下の嘆願書を会社に出します。
①初任給が新聞広告より一〇銭安い
②運転手、車掌共日給に差があること
③衛生設備が悪く、詰所もないこと、等
会社からの返事はありません。一二月に以下の再び嘆願書を提出。
①一〇日に一回の公休を六日に一回に
②勤務時間を六時間に(一〇時間を)
③詰所(きたない)の改善を。
④隧道(トンネル)に散水を(ホコリが多い)
⑤青服(軍服を思わせる)を撤廃し普通の詰襟に。
今回は車掌も参加、終車後寄宿舎に集まり、翌朝要求書として提出、返事がなければサボタージュに入ることを申し合わせました。
サボタージュへ突入
翌朝、会社に要求書を提出します。しかし要領をえない返事。午後からサボタージュに突入、通常なら五分の上野―浅草間を三〇分くらいかけての運転です。会社は本社から運転できる社員を派遣してハンドルを取り上げて対抗。運転手たちは寄宿舎に引上げ籠城。会社は運転手一二人に解雇を通告。残りの七人には切り崩し攻撃がかけられ分裂状態に。
そこへ警視庁の調停官が現れ、八時間労働と残業一割増、公休八日に一日、慰労金などにより急転直下和解へ。しかし、被解雇者一二名のうち四人は復職ができず、毎日荒れる生活となり分裂状態に陥り、停滞を余儀なくされました。しかし、職場での「活動」は続き、地下鉄争議の灯が灯ります。
(次号・下に続く)
【参考】「もぐらのうた‐1932年東京地下鉄争議記録集」学習の友社一九八七年