下町労働運動史 63
下町ユニオンニュース 2016年11月号より
戦前の下町労働史 その二六 小畑精武
保育所をつくり働く
亀戸に「無産者託児所」鈴木俊子
先日墨田レイバー・ウォークの下調べに賀川豊彦ゆかりの「光の園保育学校」に行きました。「保育学校」は保育士の学校かと誤解しましたがれっきとした保育園でした。
関東大震災後に柳島(墨田区)にできた東大セツルメントには託児所が開設されました。下町は貧しい人々が多く、共働きがあたり前でした。しかし公立の保育園、託児所は少なく「江東に生きた女性たち」には地域がつくった託児所、保育園が紹介されています。
一九三〇年の東洋モスリン争議後に江東地区では次々と保育園が女性の手でつくられていきました。三二年には亀戸一丁目、五の橋そばに「無産者託児所」が鈴木俊子たちの手で設立されます。
生活が破壊された「昭和恐慌」下で「どんなに苦しくても子どもだけは正しく丈夫に育てたい」という願いがこめられました。設立準備会には、教育団体、労働組合、文化団体から、羽仁説子、大宅壮一など約五〇人が参加。鈴木俊子は主任保母に。夫は戦後の日本国憲法に大きな影響を与え、映画「日本の青い空」の主人公鈴木安蔵です。
開所後は住み着いて働いたそうです。
亀戸一丁目の長屋に住み賛育会で長男を生んだ松田解子はこの無産者託児所に子どもを預け、一個二銭の内職をしながら、出産の様子を小説にして「読売新聞」の懸賞でみごと入選をはたしました。松田解子は一九三二年の米よこせ闘争を「回想の森」に「女性線」には江東の労働者の生活を描いてます。
「子供の村保育園」平田のぶ
一九三一年には、平田のぶが建設間もない白河三丁目(江東区)同潤会アパートの一室を借りて「子どもたちを地域のなかで生き生きと自由に育てたい」と「子供の村保育園」を設立します。
平田のぶは、広島で教師を経験、上京後は池袋で児童の村小学校の教師、教育雑誌の編集、消費組合運動、婦選運動にかかわりました。自分の子を亡くす体験、児童の村の経験を活かして、子どもの自主性を大事にする保育園づくりをすすめます。
母様学校や父様学校をつくって子ども社会だけではなく社会全般から自治の精神を考える場づくりもすすめました。空襲で焼けたあとは青空保育を続けたそうです。
「二葉保育園深川母の家」
江東区には海辺でないのに「海辺町」があります。昔は海辺だったのでしょう。そこに「二葉保育園深川母の家」が一九三五年に設立されます。
母の家は「其の行きづまりは死か堕落か」と切羽詰った母子のシェルターとして、四谷にある二葉保育園の徳永園長が友人の援助を得て、深川区海辺町に設立したものです。
施設長となった原藤英子は、親身になって母親たちに仕事をあっ旋します。早朝からの市場での仕入れと仕出し弁当づくりや家政婦の仕事、子どもたちは学校や保育室に。夫に死なれ長野から娘二人を連れて住み込んで働く母親、娘が保育園で働くようになった例もあります。
三月一〇日の東京大空襲で丸焼けになり、原藤施設長はじめ、職員五名、母子一六名が犠牲となりました。
朝五時から午後六時までの保育
工場内での託児所、保育所に加えて隣保館にも託児所があって、保母はそこで寝起きしました。公立託児所は一九二三年以降富川町、古石場などに設立されますが、保育は母親の仕事に合わせ長時間労働でした。虚弱児童を君津や谷津に転住させ、体重を増やすことも行いました。
無産者託児所は弾圧を受け、開設二~三年後に閉鎖を余儀なくされました。
【参考】「江東に生きた女性たち‐水彩のまちの近代」江東区女性史編集委員会 一九九九