下町労働運動史 52

下町ユニオンニュース 2015年11月号より
戦前の下町労働運動史 その15  小畑精武
地域ゼネストと第一製薬争議 
「ゼネスト」の敗北

 前号で「市街戦」「地域ゼネスト体制」についてふれました。「市街戦」は一〇月二四日に亀戸の町ぐるみの大デモンストレーションとして展開されました。しかし騒じょう罪が適用され争議の指導者含め一九七名が逮捕され争議は収束に向かいます。
同時に追求された「地域ゼネスト体制」はどうなったでしょうか?加藤勘十は全協(*)が進めていた工場代表者会議 を「全協では人が集まらない」として「われわれ合法性を持った」争議の起っている工場労働者を工場代表者会議に集めようとしましたが、規模の大小による意識の差などがあり、うまくはいかなかったようです。
 しかし、一九二九年に勃発した世界大恐慌により各地で労働者の人員整理がすすめられ、賃金労働条件が切り下げられ、生活破壊、解雇、労働強化に抗して労働者は全国で立ち上がりました。労働組合の組織率は三〇年に七・五%、三一年七・九%、争議件数が九〇六件、九九八件、参加人員八万一三二九人、六万四五三六人と戦前最大となりました。
  第一製薬の争議
  亀戸、墨田などでは別表のように中小企業での争議が頻発し、加藤勘十が描く工場代表者会議に基礎を置く「地域ゼネスト体制」が構築されたかにみえました。しかし争議の実態は、労働条件をめぐる争議でした。経済闘争から政治闘争に向かう道筋を切り開くことはできなかったのです。
墨田・柳島に生まれ、今も研究所が江戸川区船堀に現存する第一製薬(現在は第一三共)の争議をみてみましょう。一〇〇年前の一九一五年に前身のアーセミン商会が設立され、柳島・亀戸と相次いで工場ができました。争議団は三〇年に両方に結成され一〇月二六日から争議に入り一一月一九日に解決します。
二五日に①退職金制度の即時制定、②皆勤賞、精勤賞の本給組み入れ、③年二回の定期昇給、④一ヵ月分以上年三回の定期賞与、⑤女工の被服費を男子と同じに、⑥健康保険料の全額会社負担、⑦労使の紛議緩和のための工場委員会の制定などの嘆願書を出します。    
これに対し会社は全面拒否、二七日から工場休業で対抗してきました。さらに、右翼建国会約二〇名を導入、二九日には争議指導者二〇名を解雇。残る団員に一一月一日より会社再開を通知するも出勤者はゼロ。その後持久戦を想定し、さらに一二名を解雇します。殺人鬼
 共同闘争を志向、内実は経済闘争
 争議団は友誼労組へ支援を訴え、同時に地域へ声明書、菓子の行商、大島製鋼、洋モスとの共同闘争、社長宅訪問抗議、商品ボイコット、本社抗議から、人糞散布攻撃、帝大教授の会社顧問追及を展開しました。
一一月六日には「デモ的ピクニック」を敢行した洋モス争議団六〇名が無産婦人同盟に導かれ、第一製薬争議団を訪問、争議団万歳のエールを交換しています。
その後、一一月一〇日に争議団は解決条件として、全員復職、定昇年一回、賞与は一回につき二〇日分、争議費用全額会社負担、争議中の日給全額負担などを提示しました。
一九日には会社工場長と争議団代表三名との間で覚書が交わされ、二四日に及ぶ争議は解決に至ったのです。しかし、内容は争議団の解散、解雇者からは六名復職、解雇者への手当支給、退職金規定の創設、定昇実施など厳しいものでした。その中で女子行員の被服費を男子と同額とするは注目されます。
争議団は、洋モスや大島製鋼などの争議団と共同闘争を志向していました。関東合同労働組合亀戸第一化工支部に所属し、洋モスや大島製鋼と同じ系統に属していました。しかし、今回資料にした警視庁の争議報告には一〇月二四日の「亀戸市街戦」のことは全くふれられていません。一九日は洋モスの争議解決の日でもあったのです。不思議ですね。
201511年表
*「全協」は全国労働組合協議会の略。当時極左戦術を取っていた共産党系の労組連合体
【参考】鈴木裕子「女工と労働争議‐一九三〇年洋モス争議」一九八九年、「第一製薬社史」警視庁争議報告(大原社研所蔵)