下町労働運動史 51

下町ユニオンニュース 2015年10月号より
戦前の下町労働史 その一四    東洋モスリンの争議 ④
                      小畑精武
亀戸の「町ぐるみ闘争」へ
 争議の応援団長加藤勘十(戦後労相、社会党代議士)は「争議を契機として地域的ゼネスト体制をつくろうというのが、目的だった」と争議を位置づけていました。
 連日の工場構内デモに続いて、亀戸町ぐるみの闘いへと発展していきます。九月二七日には組合員と暴力団正義団との大乱闘が繰り広げられます。警察によって寄宿舎に押しこめられていた女性労働者五〇〇人が寄宿舎を飛び出し、労働歌を唄いながらデモを貫徹、寄宿舎に残った女性労働者たちも、二階の窓から組合旗を振ってこたえました。
「東洋モス大争議レポ集」には、「自動車でやってきた正義団をストップさせバックさせた」「夜の街頭デモで一四人が検束」「官犬の警備が電車通り(今の京葉道路)、富士館通りに一間ごとに立ち」「浅間館前でデモ隊と警官隊が衝突、大乱闘」「町民応援約一万の人出・調査不能、検束者は町民」「寄宿舎に警官隊二~三〇人が押し入り、メーデー歌で押し返した」「太鼓大小を持っていった」と連日闘いました。亀戸は洋モスでもっている町で、町民は女工さんたちに同情し救援のお米を一升ずつ入れてくれました。
 しかし一〇月に入ると会社の猛烈な巻き返しが展開されます。鉱山暴力団の再配置、脅迫、暴行、父兄の呼び寄せ、荒縄で縛り上げての強制帰郷、さらに大量解雇となりふりかまわずの切り崩しが行われました。
 女工たちは、募集人の紹介で父親が契約し、支度金五〇円、日給四〇銭で入社、娘たちからの給金の大半は小作料の支払いに充てられました。送出しの村では女工の保護と供給のために女工保護組合がつくられ賃金や待遇について会社と交渉しました。しかし、ストライキにあたっては村に女工を連れ戻す役割を果たしたのです。
201510東洋モスリンデモ
一〇月二四日の「亀戸市街戦」
 会社の巻き返しに対して、一〇月七日組合は工場代表者会議を東大柳島セツルメントで開催し、支援決議をあげます。二一日全労東京連合会の組合代表者会議は二四日夜の「亀戸市街戦」となる一大デモを決定します。
 写真にあるように「二四日夜、亀戸ダー、洋モス争議団に押しかけろ、逆襲戦だ、デモ・テロだ、労働者武装して総動員しろ!」と勇ましく「市街戦」が全国労働組合同盟から発せられ、二千人が結集、三百名余の警察官と衝突します。女工たちは寄宿舎で待機する方針でしたが、外勤の女工たちから労働歌を唄ったり、デモ隊を激励する者が出てきました。この日の検挙者は一九七名、洋モスの四人もそのなかに含まれています。
 一〇月三一日までに帰郷者八九〇名、退職者三九〇名、就業者一七九名と増え、争議から引いていきました。「地域ゼネスト」をめざしたにもかかわらず、結局、争議団は指導部を大量検挙で失い、力を失っていきます。
 争議の終結・敗北へ
 争議の収拾に日本紡織労組藤岡文六組合長が関西からやってきました。彼はまず争議団を扇動する応援団を「夜襲玉砕」方針により黙らせ、争議団の結束を固め、そのうえで調停による解決をめざして警視庁官房主事にかけあいます。一一月一九日に会社、組合と警視庁官房主事の連名により解決条件が合意確認されます。解雇は撤回しないが退職金を上積みする内容で敗北でした。
 加藤勘十が考えていた地域ゼネストによる「経済闘争から政治闘争へ」の道は敗北に終わりました。解雇撤回の要求実現について展望を開くことができなかったのです。
 ストライキで激しく闘い、第三者に調停を求めるというスタイルが戦前の特徴ですが、その背景には「争議を政治闘争へ」結びつける指導がありました。女性たちのすばらしい戦闘性を階級教育し、女性指導者を作り出すことができなかったのです。労働争議を調停する公的機関もない、労働組合法もない時代の限界でもあったといえるでしょう。
【参考】鈴木裕子「女工と労働争議‐一九三〇年洋モス争議」一九八九年、れんが書房新社、
労働史研究同人会編集「日本労働運動の先駆者たち」一九八五年、慶應通信株式会社