下町労働運動史 (46) 戦前の下町労働史 その九
下町ユニオンニュース 2015年4月号より 小畑精武
下町の朝鮮人労働者
急増した朝鮮人人口
「荒川放水路建設と朝鮮人虐殺」について二七号に書きました。関東大震災では六〇〇〇人もの朝鮮人が虐殺されました。しかし、その後震災復興事業がすすむなかで朝鮮人人口は下町で急増します。就業先は定着性の強い工場ではなく、流動的な不熟練労働者、土木建築関係労働者が増加したのです。全国的にも在日朝鮮人は一九二〇年の三万〇一四九人が、三〇年にはほぼ十倍の二九万八〇九一人、一九四〇年には一一九万〇四四四人と四〇倍にも膨れ上がっていきます。
地域的には、隅田川下流、芝浦一体であり、本所、深川、南葛飾郡、北豊島北部、荏原郡でした。これらの地域は関東大震災による人口流出が激しく、居住条件も劣悪でした。日本人と朝鮮人との間が隔てられ「摩擦を生まない居住空間」がつくられていきます。
江戸川、葛飾、足立など周辺郡部が区制になった(三二年)後の一九三七年でも、朝鮮人人口は絶対数で深川区(五〇六七人)、荒川区(四一七九人)、本所区(四〇三九人)、城東区(三六二二人)、人口比率でも深川区(二、三七%)城東区(二、一二%)向島区(一.五四%)本所区(一、四五%)と下町四区が上位を占めています。 仕事は、製造業では、男子がガラス職工、女子は紡績工などで日本人労働者の募集が困難で、低賃金、高熱、長時間労働に限られました。多くは土木工事で、とくに道路工事用労働者が多かったようです。南葛労働会事務所があった本所太平町には相愛会という労働者保護の寄宿舎があり五二五人もの日雇いの人夫が宿泊していました。
「労働者保護団体」による集団的就職
朝鮮人労働者は、同郷の先輩を頼っての就職とともに相愛会、一善労働会、野方汗愛寮、在日本朝鮮労働一心会など「労働者保護団体」を頼る場合も多かったようです。保護団体は「日鮮融和」「朝鮮人労働者保護」をうたっていました。これらの団体を通しての就職は独身者51.3%、世帯員45.3%、知人友人親戚の紹介が22.2%と21.5%であるのに対して、公的職業紹介所は1.5%と2.5%と就職率の低いのが目立ちます。ただし、この調査が保護団体を通してのものであるため、疑問視もされています。また「労働者保護団体」は今日の「技能実習生受入れ団体」と似ています。歴史は繰り返すのでしょうか?
衆議院議員になった朝鮮人
「日鮮融和」をうたった相愛会は関東大震災後官僚や財界からの支援もあって、勢力を伸ばし二万人ほどの組織になります。代表的な相愛会は職業紹介とともに、太平町の寄宿舎など無料宿泊施設を経営。副会長朴春琴(写真)は三二年と三七年に東京四区(本所区、深川区)選出の帝国議会議員になっています。一九〇六年に来日し、土木作業員から手配師となり、清水組や熊谷組の仕事を請負ました。二〇年に相愛会の前身、相救会を結成、二一年に相愛会に改組し副会長となり、関東大震災の死体処理、焼け跡整理をします。三二年衆議院に初当選し二期務めますが、大政翼賛選挙では敗北します。親分肌で面倒見がよかったことから日本人にも人気が高かったそうです。戦後は親日派民族反逆者として指名されます。当時は「内地居住」の男子であれば朝鮮人、台湾人でも日本人と同様に選挙権、被選挙権を有していたのです。
東京朝鮮労働同盟会の結成
一九二二年に東京朝鮮労働同盟会が結成され、一九二五年には「在日本朝鮮労働総同盟」が八時間労働制、最低賃金制度確立などを掲げ東京で結成されます。神奈川、大阪などでは朝鮮人労働者の争議が闘われました。下町では、皮革産業労働者の東京合同労組で在日朝鮮人運動の指導者であった金浩永が活動していました。
【参考】松本俊郎「震災復興期の東京府下朝鮮人労働者に関する人口・職業分析」岡山大学経済学雑誌、一九八五年
外村 大「帝都東京の在日朝鮮人と被差別部落民」(部落解放研究 No一七一、二〇〇六年八月)
ウィーキペディア 「朴春琴」